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織田信長の富士遊覧
富士見石(富士宮市立中央図書館前)信長が腰掛けて富士山を眺めた伝承があります(右の平たい石)。
天正10年(1582年)3月、織田信長は徳川家康らとともに甲斐の武田氏を攻めました。甲州征伐と呼ばれるこの戦いで、戦国大名としての武田氏は滅亡します。
長年の強敵であった武田氏を滅ぼした信長は、戦後処理を済ませると本拠の安土城へ帰還します。
その帰還中に、信長が富士宮に立ち寄った話を、信長の家来である太田牛一が著した『信長公記』の記述から紹介します。
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信長は、富士山を見物していくことを望みます。甲州征伐の結果、駿河国を得た家康は信長の要望に従い、信長一行を大いにもてなしました。
信長一行は天正10年4月12日の未明に「もとす」(山梨県本栖湖付近)を出立し、「富士の根かた、かみのが原井手野」(朝霧高原か?)に到着しました。この地で、信長の家来たちが馬を走り回らせ、雪の積もった富士山を眺めています。続いて、一行は「根かたの人穴」(人穴洞穴)を見物し、茶屋でお茶を飲んでいます。また、信長は源頼朝が富士の巻狩りの際に屋形を建てたとされる「かみ井手の丸山」(上井出)と、当時から「名所」となっていた「白糸の滝」について、詳しく尋ねています。
その後、信長一行は「大宮」(富士山本宮浅間大社周辺)に至ります。当時、「大宮の諸伽藍」(富士山本宮浅間大社)は甲州征伐の影響で失われていましたが、家康は社内に豪勢な御座所を設け、信長一行をその宿舎に宿泊させました。
このもてなしに満足した信長は、秘蔵の名物を家康に褒美として授けました。
翌13日に信長一行は大宮を離れ、富士川を渡り、東海道を通って安土城を目指します。
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信長はこの僅か2か月後である天正10年6月に、本能寺の変で命を落としてしまいます。
たった1日のことではありましたが、信長と家康がこの富士宮市を訪れたとされています。
私たちが眺める雪の富士山を、2人の天下人も同じように眺めたのかもしれません。