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大宮城の発掘
「城」と言われるとどのようなものを思い浮かべるでしょうか。姫路城のように石垣が組まれた高台の上に、何重にも屋根がある白壁の天守閣を想像されると思います。かつて、富士宮市の中心部にも「城」と呼ばれた場所がありました。
富士山本宮浅間大社から神田川を挟んだ反対側の市立大宮小学校周辺には、戦国時代に今川氏と武田氏の戦場となった「大宮城」がありました。「城」と呼ばれていますが、皆さんが想像するようなものではなく、守り手が籠るいくつかの建物とその周囲を囲う堀と柵を巡らせた土塁があったと考えられています。
「大宮城」では城の南東部に当たる現在の市立大宮保育園周辺で数回発掘調査が行われ、建物跡、堀跡、土塁、井戸跡など、13世紀から16世紀末にかけての遺構が発見されています。出土品には海外から輸入された陶磁器など様々なものがあり、その種類や作成された年代などから、時代によって堀の位置などが変わっていることがわかりました。
「大宮城」の地はかつて富士山本宮浅間大社の大宮司である富士氏に関係する建物があったと考えられていますが、「大宮城」が有名になった事件として、戦国時代に武田信玄がこの城を攻めたことが挙げられます。永禄11年から12年(1568~1569)にかけて、富士氏は今川氏側として城に立てこもり武田氏と戦いました。最終的には富士氏は城を明け渡し、武田氏が城に入ったと言われています。「大宮城」はこのような情勢の中で城が改築されていったと考えられます。
その後、天正10年(1582)年の織田信長による武田氏攻めの際に城は焼き払われたといわれ、発掘調査の際には戦乱の様子を物語るような焼け焦げた木材なども見つかっています。また、武田氏を滅ぼした信長は徳川家康の案内の下、大宮の地を訪れています。
現在、「大宮城」の地は学校や建物が建ち、当時の様子がわかるものはほとんどありませんが、「大宮城」の出土品は現在市埋蔵文化財センターで展示しています。当時の出来事を思い浮かべ時代の流れを感じることも感慨深いかもしれません。