ここから本文です。
目次
角田桜岳の地球儀
角田桜岳の地球儀と拡大写真
富士宮市立郷土資料館では、江戸時代末期頃に作られたと考えられる地球儀を2点所蔵しています。
これらは、角田桜岳(佐野与市)という江戸時代後期から明治初年にかけて大宮町連雀(れんじゃく)(現在の東町)に住んでいた町役人が製作・普及に関わっていたと考えられています。
地球儀が日本に持ち込まれたのは天正年間(1573~1592)と考えられ、江戸時代に入ると国内でも作られるようになりました。最初は輸入品を真似していましたが、各種地図を参照して、独自の色々な地球儀が作られるようになりました。江戸時代末期には量産されたものもありました。
郷土資料館で所蔵する地球儀の内1点は、直径約20センチ、周囲が約63センチの張子製の球体に、木版刷りの世界地図を張り付けたものです。日本が赤く塗りつぶされ、10度ごとに経緯線が引かれて、赤道や南北回帰線などが描かれています。大陸や国境なども細かく表記されており、現在の地球儀と比べてみても精度がかなり高いものと考えられます。
地球儀の周りには、台座の支柱に差し込んで固定された地平環という帯状のリングのようなものがあり、方角や1年の12か月の名称などが示されています。
地球儀には収納箱も残されています。箱のふたの裏面に、「地球儀用法略」という地球儀の使用解説書が貼られていて、世界各地の緯度・経度や時刻、日付によっての太陽の高さなどを調べる方法が記載されています。
明治時代初期には、平等寺の本堂を借りて開校した嶽麓洞(がくろくどう)(後の大宮小学校)における理科などの授業の際に、角田家から地球儀を借用して教材として使用したという記録があります。
地球儀の製作・普及に関わったとされる桜岳は大変な勉学家であったようで、江戸へ出る機会も多く、漢学者や国学者との親交もあったようです。地球儀の製作にあたっては地理学者や蘭学者等に多くの指導・協力を得ています。
桜岳は町役人としての業務の他に、この地域の人々に地球儀を紹介したことから、文化的にも大きな貢献をした人物といえるでしょう。
ちなみに、国内では同型の地球儀が4点確認されており、2点は郷土資料館、残り2点は国立歴史民俗博物館と鹿児島県の尚古集成館に保管されています。貴重なものと考えられますので、皆さんにも見ていただく機会を作っていきたいと思います。