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更新日:2025年8月6日

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目次

 

しずおか遺産

しずおか遺産とは?

「しずおか遺産」とは、「日本遺産」の県内版として魅力ある歴史文化資源を発信するための県の認定制度です。豊かな自然に恵まれ、様々な歴史的出来事が繰り広げられた静岡県は、歴史文化資源の宝庫です。県内の魅力的な歴史文化資源を県内外の多くの人に知ってもらい、現地を訪れていただくことを目指しています。

ロゴ

認定ストーリー「富士山の清流が織り成した産業革命」

概要

富士山は、古より信仰の対象として畏敬されるとともに、数多くの芸術作品を生み、その自然の恵みは山裾に生きる人々の生活を支えてきました。日本が欧米列強と肩を並べんと、近代国家への道を駆け上った明治時代。水力によって産業振興を目指す者たちがいました。その志を実現させたのが、富士山麓の豊富な水でした。富士山登拝の拠点であった東西のまちには、富士山の恵みで新たな時代を切り開いていった人々の遺産が、今も確かに受け継がれています。

白糸発電所

申請市町村

小山町(代表市)・富士宮市

紹介動画

ストーリー

富士山の恵み

世界文化遺産の富士山。古来、幾度となく噴火を繰り返したこの山を人々は畏れ敬い、その威容から芸術を生み出し、山裾では恵みを活かして人々が生活を営んできました。戦国時代以降、各地から富士山登拝者が訪れ、麓のまちは発展を遂げました。そして時代が移り、明治時代。日本は近代産業を移殖・振興し、急速に近代国家へ歩みを進めました。富士山登拝の拠点であった山麓のまち、現在の小山町と富士宮市は、富士山の恵みとともに、新たな時代への一歩を踏み出しました。

近代化の波

日本が欧米列強と肩を並べんと、国を挙げて産業の近代化を目指す中、国内の豊富な水の力をもって日本の産業振興・国家発展を目指す者たちが現れました。彼らが目を付けたのが、一年を通じ豊富で安定的な水量と高低差による水勢を持つものの、他の産業が未進出で、鉄道開設により大都市圏と結ばれんとしていた富士山麓でした。彼らは明治20年(1887年)に会社を設立すると、富士山南西麓の潤井川沿いに水車動力の工場を建て成功を収めました。富士山南西麓では、富士山由来の水を活かした製紙業も行われるようになり、まちに新たな活気を呼び起こしていきました。

この成功は、同じく豊富な水を持つ東麓のまち-現小山町-を、工場誘致へと突き動かしました。明治31年(1898年)、東京・横浜と鉄道(現東海道線御殿場線)で直結していた小山において、富士山と箱根山系の水が集まる鮎沢川(酒匂川の上流域)沿いで、水車動力の巨大な紡績工場、富士紡績会社小山工場が操業を始めました。この当時、鮎沢川の流れは、鉄道唱歌第1集13番に「いでてはくぐるトンネルの前後は山北小山駅今もわすれぬ鉄橋の下ゆく水のおもしろさ」とうたわれるほど印象的でした。

紡績業とまちの発展

小山の紡績業は、初めから順調に進んだわけではありません。開業まもなく経営の危機に直面しました。倒産の危機を迎えた紡績工場を立て直したのが和田豊治。和田は、明治34年(1901年)に富士紡績に入社すると、翌年には赤字を全額解消し、明治39年(1906年)には当初に倍する生産量に押し上げました。小山の紡績業の特徴は、ニッチ分野への進出でした。綿紡績では、先発する主要大企業の支配が及ばない中細糸や極太糸の生産を行うとともに、絹紡績では、廃物の屑繭を新技術で優良絹糸に変え、「富士絹」としてブランド化し、新たな市場を開拓していきました。

工場の設置は、それまで農業が中心であった町の姿を大きく変えました。一時は、東海道本線で夜に西へ向かうと横浜の次に出会う明るい町といわれるほど、小山は発展しました。鮎沢川に架かる森村橋は、対岸を走る東海道本線と工場を結ぶために造られた鉄道トラス橋であり、まちの近代化を今も物語ります。

水車動力から電気動力へ

小山の紡績工場が生産量を増した明治後半期の日本、各地で工場の電化が進み、電力需要が急拡大しました。新たな発電所の建設は急務。しかし、火力発電の主原料である石炭価格は高騰し続けていました。このジレンマを解決したのが水力発電でした。

小山の富士紡績は、独自に水車動力から水力発電への転換に乗り出します。明治40年(1907)6月の鮎沢川での発電所稼働を皮切りに、大正時代の終わりまでに7か所の水力発電所を建設しました。電力は、自工場のみならず、地域に優先的にかつ一部無償で供給され、さらには京浜工業地帯にも供給され、日本の工業を支えました。

同じ頃、富士山を隔てた西側、現在の富士宮市でも電力化の動きに呼応していました。水力発電は、芝川沿いが舞台となった。明治43年(1910)の発電所建設を嚆矢に、昭和初期までに15か所で水力発電所が芝川沿いに造られました。

紡がれる歴史

小山の紡績業を牽引した和田豊治は、大正13年(1924年)に亡くなるが、従業員や町民の福利厚生施設として利用されることを願い、東京の邸宅を小山の地に寄贈しました。逝去の翌年に工場群を見下ろす高台に造られた「豊門公園」に移設された旧和田豊治邸ですが、実際には政財界人をもてなす迎賓館的な利用がなされました。一方、敷地内に建てられた西洋館は、富士紡績の若手幹部職員に対する研修施設や社員寮として利用されました。

昭和から平成を経て令和を迎える中で産業も姿を変え、小山町の紡績工場は姿を消しました。しかしながら、紡績が残した遺産は今も町民と共にあります。住民と従業員の福利厚生のために造られた豊門公園は、令和元年に再整備され、西洋館の1階はレストラン、2階は小山町の紡績の歴史を学ぶ展示が行われています。時を超えて和田豊治邸は、その遺志のとおり町民のためのものとなりました。また、水の恵みは、小山町の特産品である水かけ菜や山葵の生産に活かされています。

水かけ菜は、明治20年代に東海道線敷設の際、労働者の関係者が食したことが調理の始まりと言われます。近年は、豊かな水を求め食品系の工場がこの地に進出しており、令和6年(2024年)は国内最大規模の陸上養殖施設が誕生し、小山産サーモンの出荷が始まりました。

一方、富士宮市では、現在も水力発電所が稼働し、市民の生活や産業を支えると共に、豊かな水が養鱒や山葵の生産、酒類の醸造に活かされています。富士宮市における養鱒業は昭和8年(1933年)の県営養鱒場にはじまり、民間に広がったもので、富士山の水の近代的な利用の一つの姿です。また、富士宮市域では江戸時代頃から湧水を活かした酒造りが行われています。富士山に抱かれて酒造りが続けられてきたまちであり、近年では、クラフトビールも生産されています。富士山の恵みの水は、山麓の東西のまちで、時代に応じて新たな産業を巻き起こし、地元経済や地域雇用を支え続けています。

信仰の対象と芸術の源泉として名高い富士山、山麓の近代産業の遺産を巡ることは、富士山の知られざる魅力を見つける旅となるでしょう。

富士宮市内の構成文化財(4個/13個)

猪之頭発電所(取水口・堰堤)/未指定・有形文化財(建造物)

明治43年(1910年)10月、富士製紙会社の関連会社である富士水電株式会社によって建設された水力発電所。県内で稼働している水力発電所の中で最も古いものです。

猪之頭発電所

 

白糸発電所(取水口・堰堤・水槽)/未指定・有形文化財(建造物)

大正5年(1916年)、富士水電株式会社によって建設されました。発電所は建て替えられているが、取水から発電所への送水施設が古いまま残されています。

500

 

 

 
山麓の水を利用した養鱒景観/未指定・文化的景観

昭和8年(1933年)、国内三番目の県営養鱒場として開設された富士養鱒場をはじめ、富士山由来の豊富な湧水を用いた14ヶ所の養鱒場があります。

池と富士山

富士宮の酒造り/未指定・無形文化財

富士宮市内には4軒の造り酒屋があり、いずれも、江戸時代から続く酒屋です。

富士宮の酒

関連リンク

レガシズ静岡県文化財ナビ(外部サイトへリンク)

【発電所】東京発電株式会社(外部サイトへリンク)

【養鱒景観】静岡県水産・海洋技術研究所 富士養鱒場(外部サイトへリンク)富士養鱒漁協組合(外部サイトへリンク)/土田養鱒場/柴崎養鱒場(外部サイトへリンク)/武田養鱒場/猪之頭養鱒場/淀師養魚場/フジ水産/岳南養魚/杵塚養鱒場/白糸滝養魚場(外部サイトへリンク)柿島養鱒(外部サイトへリンク)くぬぎ養鱒場(外部サイトへリンク)/相模漁業/西田養鱒所(外部サイトへリンク)

【酒造り】富士高砂酒造(外部サイトへリンク)富士錦酒造(外部サイトへリンク)富士正酒造(外部サイトへリンク)牧野酒造(外部サイトへリンク)

お問い合わせ先

文化課学術文化財係

〒418-8601 静岡県富士宮市弓沢町150番地(市役所6階)

電話番号:0544-22-1187