「-郷土の先覚者-角田桜岳」展
2011年05月31日掲載
日記の解読成果を交えて、郷土の先覚者角田桜岳を紹介します。
はじめに
角田桜岳(佐野定経・通称与市)は、江戸時代末期大宮町連雀(現富士宮市東町)に住まいし、大宮町の町役人を勤め、助郷役免除の嘆願や万野原の開発など地域の振興に尽くした功労者として知られています。 また、江戸に度々遊学し地球儀の製作に関わるなど、文化的にも先覚的(他に先んじてことの道理や重要性を知り、事を起すこと。)な人物でした。 この桜岳に関係する資料が、平成元年と同13年に関係者から富士宮市教育委員会に寄贈されました。教育委員会では、その中の日記類の解読を現在進めております。これまでは「角田桜岳墓銘」の記載をもとに語られてきた桜岳像ですが、日記を解読することによって桜岳の実像を少しずつ明らかにすることができるものと思います。
1 「角田桜岳墓銘」とその記載
角田桜岳墓銘(顕彰碑)は、市内東町の浄土宗大頂寺境内に明治15年(1882)10月に建立されたものです。角田家姻戚の中村秋香に頼まれた『西国立志篇』の著者中村敬宇(正直)が文章を書き、宍戸環が「角田桜岳墓銘」と篆額を誌し、書家の新岡久頼が書してできたもです。この碑には、次のようなことが誌されています。
- 名前は定経といい、通称与市、桜岳と号した。佐野与摠右衛門安清の十代目にあたる。
- 本姓は佐野氏で、明治4年(1872)に角田姓を名乗った。
- 幼いころから学問を好み、江戸に出て朝川善庵に学び、15歳で帰郷し大宮町の役人となる。明治6年(1873)に癰を患い没するまで、約40年にわたって大宮町のために尽くした。
- 大宮町の属地であった万野原には大勢の人が入り込み開墾を進めていたが、思うようにいかなかった。それを見た桜岳は、自ら万野原に万農庵を築いて移住し開発の指導にあたった。
- 大宮は甲州街道の伝馬・人足を賄っていたが、さらに吉原宿応援のための人馬を負担する助郷村でもあったため、助郷役が住民の大きな負担となっていた。そこで、桜岳は江戸に出て幕府に助郷の負担軽減を願い出、21年後に願いが聞き届けられた。
- 東海道が通行困難なときの間道として青山から足柄を経て、さらに駿河遠江・三河の国々の北を通る道を開いてはどうかと提案したが、実現しなかった。
- 本栖湖より湖水の引水を提唱し測量図を作ったが、実現しなかった。
- 日本人として初めて地球儀を製作し、水戸烈公(斉昭)に献上し大いに賞められた。
- 新庄道雄が編さんした駿河国新風土記には富士・駿東2郡の記載がなかったので、それを補おうとした。
- 母の看病を熱心に行い、母が朝顔を好んでいたので500余種の朝顔を集めた。
「角田桜岳墓銘」刻文
君名定経一名勤幼名与三郎通称与市号桜岳駿河国富士郡大宮人本姓佐野氏与摠右衛門安清十世孫也四世祖四郎兵衛出自角田氏明治四年定称角田氏父典市母小永井氏君幼好学稍長東遊入朝川善庵門年十五器識夙成為大宮街役員後為組頭在職四十年其志在興利除害終始如一大宮属地有万野原四方転徙之民集焉開蕪墾荒困苦万状君撫育之設施有法衆頼以安後築家居之号万農庵衆推君為邑長大宮本為岳麓通道多徭役而又助吉原駅役民苦之君往江戸屡請免除而不允要幕相於道訴輿前者数経二十四年始得允実元治元年也是其成功之最灼々者矣嘉永年間外交事起東海道往来繹騒毎霖雨川溢行旅為沮君欲自江戸青山経足柄出駿遠参之北開間道以通之規画具成而有事故不行富岳本栖湖涸之則可得田万頃測量図成亦扞挌不行然此皆足以見君之志矣当製地球儀献之於水戸烈公公嘉奨之邦人製地球儀此為始平田篤胤門人新荘道雄編纂駿河風土記料上之幕府而富士駿東二郡欠君補之既艸十余冊未成而患癰明治六年六月四日没距其生文化十二年乙亥四月二十二日享年五十有九葬于大頂寺先塋之次君有至性母病在床二十二年色養不懈母性好花最愛牽牛花君百方聚之至五百余種之多娶渡邊氏有七男四女長男鍬太郎嗣家介中村秋香索余銘銘曰
事之行者 人頼其利 事之不行 我諒其志 識何超卓
性乃忍耐 垂範後昆 則傚勿懈
明治十五年十月 従五位中村正直撰 従四位勲二等宍戸環篆額 新岡久頼書 広羣鶴刻
「読み下し文」
君の名は定経、一に勤と名づく。幼名与三郎、通称与市、桜岳と号す。駿河国富士郡大宮の人なり。本姓佐野氏、与摠右衛門安清十世の孫なり。四世の祖四郎兵衛、角田氏より出づ。明治四年、角田氏を定称す。父与市、母小永井氏。君幼にして学を好み、稍長じ東遊し朝川善庵の門に入る。年十五器識夙に成る。大宮街役員と為り、後に組頭と為る。職に在ること四十年、その志は利を興し害を除くにあり。終始一の如し。大宮の属地に万野原あり、四方転徙の民集まりて蕪を開き荒を墾す、困苦万状たり。君これを撫育し、設施に法有り、衆頼むに安きをもってす。後家居を築き、これを万農庵と号す。衆君を推し邑長と為す。大宮本より岳麓の通道為り、徭役多し。而して又吉原駅の役を助く、民これに苦しむ。君江戸に往きしばしば免除を請へども允されず、幕相に道を要め、輿前に訴ふるも、数経ること二十四年、始めて允さるるを得。実に元治元年なり。これその成功の最も灼々たるものなり。嘉永年間外交の事起り、東海道往来繹騒たり。霖雨の毎に川溢れ、行旅為に沮り。君江戸青山より足柄を経て、駿遠参の北に出づる間道を開き、以て之を通ぜんと欲す。規画具に成る。しかるに事故ありて行われず。富岳本栖湖これを涸すれば、則ち田万頃を得べく、測量図成るも亦扞挌して行われず。然れどもこれ皆君の志を見るに足る。かつて地球儀を製し、これを水戸烈公に献ず、公これを嘉奨す。邦人の地球儀を製するはこれ始めとす。平田篤胤の門人新荘道雄駿河風土記を編纂し、料りてこれを幕府に上ぐ。しかるに富士駿東二郡を欠く。君これを補い改めて十余冊を草し、未だ成らざるに癰を患ひ明治六年六月四日没す。その生を距てること文化十二年乙亥四月二十二日、亨年五十有九なり。大頂寺の先塋の次に葬る。君至性有り、母病床にあること二十二年、色養懈らず、母性花を好み最も牽牛花を愛す。君百方これを聚め五百余種の多きに至る。渡邊氏を娶り七男四女有り、長男鍬太郎家を嗣ぐ。中村秋香を介し余に銘を索む。銘に曰く、
事の行はるるは 人其の利を頼めばなり
事の行はれざるは 我其の志を諒とす
何ぞ超卓なるを識る 性は乃ち忍耐にして
後昆に範を垂る 則ち傚いて懈る勿れ
明治十五年十月 従五位中村正直撰 従四位勲二等宍戸環篆額 新岡久頼書 広羣鶴刻
2 『角田桜岳日記』
『角田桜岳日記』は、平成元年及び同13年に寄贈された角田家文書の中の、佐野与市(定経)が記した「晴雨雑記」「霽雨雑記」等の日記類を、佐野与市(後に角田姓となる)の号「桜岳」にちなんでまとめたものです。途中欠落している部分もありますが、現存する日記は天保12年(1841)から慶応2年(1866)までの約26年間にわたっての記録で、日記帳44冊、覚・雑記帳等が13冊残っています。
日記には、その日の天候と起床から就寝するまでの本人の一日の行動や出来事が詳しく記録されています。また、訴訟の経緯や役所とのやりとりなども記されており、町役人桜岳の仕事ぶりを伺うことができます。江戸在府中の日記には、交友関係や愛読した書物などの記載もあり、知識人・文化人としての桜岳を知ることができます。
平成15年度は、天保12年(1841)から同15年(1844)までに記した10冊を解読し、『角田桜岳日記 一』として刊行しました。
3 角田桜岳の事績
(1) 角田桜岳と地球儀
伝・角田桜岳製作の地球儀
郷土資料館では、角田桜岳が作ったと伝えられる地球儀を2点所蔵しています。1点は東京都に在住していた桜岳の曾孫にあたる方から寄贈されたもので、もう一点は市内に残されていたものです。これらは同じもので、直径約20cmの張子製の球体に木版刷りの世界地図を貼り付けたものです。
地球儀球面に、「松木愚谷閲・高木秀豊校・三木一光斎図・江川仙太郎刀」と製作に関わった人物の名前が記されています。三木一光斎は歌川芳盛という江戸末期の浮世絵師で、当時何点かの地図を描いています。江川仙太郎は、安政2年(1855)に沼尻墨僊が製作した「大輿地球儀」の地図を彫った人物です。松木愚谷・高木秀豊については、どういう人物か分かりません。
また、内側に「十五番」と書かれています。これが製造番号であるならば、相当数の地球儀が製作されたものと思われます。
これと同じ地球儀は、佐倉市にある国立歴史民俗博物館と、島津斉彬の遺品を収納する鹿児島市の尚古集成館に保管されています。
『地球儀用法略』と佐野与市(桜岳)
この地球儀の収納箱が1点同時に寄贈されました。その収納箱の蓋裏面に『地球儀用法略』という地球儀の使用解説書が貼られていて、
「安政三年丙辰仲冬
谷邦楼蔵板
江戸 杉本宇兵衛
駿河 佐野 与市 発」
とあります。この収納箱と地球儀が同時に製作されたものであるとすると、地球儀が製作されたのは安政3年(1856)となります。
また、『地球儀用法略』は、谷邦楼が蔵板していたものを江戸の杉本宇兵衝と駿河の佐野与市(角田桜岳)が共同で発行したと考えられます。
この地球儀を製作したのは球面に記載されている四人の者ですが、『地球儀用法略』には「駿河佐野与市」の名前が見られ、桜岳が地球儀の製作・普及に関わっていたことが推定できます。今後の桜岳日記解読を通して、桜岳の交友関係を調べていくことによって、地球儀と桜岳の関連が解明されるものと思います。
なお、万野原新田在住の角田万幸氏は、角田桜岳製作と伝えられる地球儀を1点所蔵しています。これは張子製の球体に手書きの世界地図を貼り付けたものです。桜岳が製作したという確証は得られませんが、地球儀と桜岳の関連を裏付けるものとして注目されます。
(2) 助郷役免除の嘆願
町民の生活に大きな重荷となっていた東海道吉原宿助郷役の負担を軽減することは、万野原の開墾と同様に大宮町にとっては長年の懸案事項でした。東海道の宿駅は常備された人馬では賄いきれず、あらかじめ宿駅周辺の村々を助郷村に定め、これら助郷村から何人何疋かの人馬を徴用していました。吉原宿の助郷村であった大宮町は文政11年(1828)より助郷役の負担が増大し、町民の生活を圧迫していました。
安政2年(1855)2月の嘆願書「乍恐以書付奉願上候」(右写真)には、次のようにあります。
「嘉永七甲寅年四月十八日江戸着出府御支配へ数度歎願、仁右衛門・孫八詰合中三名にて相願候処、四月初□惣代にて差出候願書、七月□日御奉行所より御支配に被仰付御下相成、其以来与市一人にて□□御支配へ歎願、嘉永七年十月二十日道中兼御勘定奉行本多加賀守様へ御差出し、安政元十二月十日同御奉行へ御駕籠訴、同十二月二十五日同御奉行へ御差出し、安政二年三月十日再御駕籠訴 駿州富士郡大宮町役人惣代年寄与市」
嘉永7年10月20日の嘆願以後は桜岳一人で運動を続け、駕籠訴までした桜岳の熱意が伝わってきます。
助郷役免除の嘆願は、運動を始めて22年後の元治元年(1864)になって漸く受け入れられたということです。
助郷役免除の嘆願開始
桜岳が助郷役軽減の嘆願をしようと提唱したのは、日記によると天保12年(1841)5月19日のことで、自分の家の改築が終わったのに合わせて町役人などの重立った人たちを招待して酒宴を催し、その席で次のように伝馬一条(助郷役軽減の嘆願)を切り出しています。
「予一同へ向い申候は、予いまだ本復致し申さず、殊に肥田先生より四度江戸行催促書状に付是非参候つもりにこれ有候、然処彼地にて只遊び居候も無益に候間、伝馬一条相願候て、願済に相成べき哉の処聞合等致し度 (中略) 直又入用凡何ヶ年位いは費し候てもよろしく哉の御相談承べくと、夫々伝馬一条種々咄す」
要約すると、「私は病気治療のため江戸へ行くが、遊んでいるだけでは無駄になるので伝馬一条を願い出たい。ついてはその費用は何年位見てもらえるか」ということでした。
それに対して出席していた町役人たちは、期間は一年で、その費用は40両か50両ではどうかということでしたので結論が出ませんでした。23日の条には次のようにあります。
「予又申候は、今壱年増弐ヶ年増入用と直段くぎりを申候も、いまだ見当もこれなき事万一江戸行少しも手懸りなき様成時は外聞もよろしからず候間、入用相談の義よひかげんにいたし申べき由申候、それ故先弐百両見当と致し候」
この日記を読む限りでは、桜岳が町方の役人衆に話を持ちかけ、江戸へ出て助郷役免除の嘆願をし、成就した時には費用として200両を受取る約束をしたようです。
(3) 間道の開さく
江戸から大宮
桜岳は「江戸青山より足柄を経て駿遠参の北に出づる間道を開き」と墓銘にあります。この記載を裏付けるものとして、桜岳の雑記帳『江戸青山ヨリ大宮迄雑記』には次のような道筋が記載されています。
青山→上渋谷→世田ヶ谷→二子→溝ノ口→荏田→長津田→上鶴間→厚木宿→愛甲宿→伊勢原宿→善波宿→曽屋→千村→松田村→関本→矢倉沢→竹之下→御殿場→印野→十里木→大渕→大宮町
この記載がいつのものか分かりませんが、宿間の距離や方位が細かに記載されています。この順路は江戸赤坂御門から矢倉沢(現南足柄市)に至り足柄峠を越えて駿河に通じる矢倉沢往還の道筋です。この街道は、大山詣りや富士登山をする道者が利用したことから大山道とか富士道とも呼ばれていました。
今回解読した10冊の日記には、この道を通った記録はありませんでしたが、天保13年5月2日から5日にかけて帰郷する際、小田原手前の酒匂川が増水して川留めとなったため上流の十文字で川を渡り、関本から矢倉沢を経て竹之下・御殿場・印野・十里木・大渕・大宮の順路で帰郷しています。矢倉沢街道を利用して大宮に至る道は、桜岳も度々使用していたことが推測されます。
大宮以西
「駿遠参の北に出づる間道」とある大宮以西については、雑記帳には記載がありませんが、関連する記事が『桜岳日記』の天保14年5月から6月の所に見られます。
日記によると、桜岳は芝川町の長貫—瀬戸島間の富士川に架かっていた釣橋を丈夫なはね橋(橋脚を用いないで橋台からかまちを何枚も重ねて架けられた橋。山梨県大月市の猿橋が有名。)に改修して渡りやすくし、東海道が川留めの際の間道にしたらどうかと提唱しています。その道筋は大宮から中里(現大中里)を通り現在の芝川町西山・長貫・内房を経て宍原(現静岡市)に至るというものだったようです。
『東海道山すじ日記』の道筋
明治2年に北方探検家で明治新政府の開拓使判官であった松浦武四郎は、桜岳の『江戸青山ヨリ大宮迄雑記』に見られる道筋を通り大宮に至り、さらに西進して内房から宍原に出て、山間部の峠や谷間を越えて三河国御油宿(愛知県豊川市にある東海道の宿駅)に至るまでの道筋を歩き、『東海道山すじ日記』として報告しています。これは、海に面した東海道に対し、内陸部を通る山すじの道の可能性を探り、緊急時の連絡用の道筋を確保するための踏査でした。
桜岳と松浦武四郎が知人の関係にあったことは、桜岳の記録からも明らかで、松浦武四郎も大宮に赴いたとき万野原で開墾にあたっていた桜岳を訪ねています。『東海道山すじ日記』の内容は、桜岳の計画したという「駿遠参の北に出づる間道」となんらかの関係があったのでしょうか。今後の日記の解読によって松浦武四郎と桜岳の交友関係も解明できるものと思います。
『東海道山すじ日記』大宮町部分抜粋
「大宮町人家千軒・乗馬有、茶屋・はたごや有、佐野直吉・同与市、并ニ別当富士神一郎之尋ねて止宿し、翌朝万農原とて町より半里斗の処ニ与市隠居して新畑を開居れは是ニ尋ぬ、此原広き事は余程ニ見ゆれとも、如何にも田ニは水乏しくてなり難しと、依而皆茶又は結香を植、移住之者喰ハ麦四分・芋四分・米弐分位のよし」
(『東海道山すじ日記』原著松浦武四郎 翻字・解説宮本勉より)
(4) 万野原の開墾
万野原は大宮町に属し、万野原の年貢は大宮町が納めていたので、大宮町にとっては万野原の年貢の弁納は大きな負担となっていました。桜岳も日記の中で「万野原第一の難渋なり」と言っています。
万野原の開墾は、江戸時代の初めころ伊奈備前守によって始められたと伝えられています。備前守は宮原村の小林権兵衛や大宮町の百姓を入植させて開墾にあたらせ、飲用水は既に開削されていた北山用水を延長して万野用水を開削し、万野原に引水しようとしたと言われています。しかし、万野用水の開削は思うように進まず、万野原の開墾も失敗に終わったようです。その際、備前守は開墾に尽力した小林権兵衛に芝川の名にあやかり「芝川」の姓を与えると共に、権兵衛が開墾した道順原という土地の名前にちなんで「道順」と名乗らせたと言います。文化年間には道順の子孫の三右衛門が開発を試みましたが、これも失敗に終わりました。(『萬野区誌』参照)
今回解読した桜岳の日記には、天保12年5月に道順や三右衛門の書付を探していることが出てきます。
また、天保14年7月30日の条には次のようにあります。
「よし原にて先日跡部様御供御普請役か弥兵衛殿に万の原の義御尋候処、とても出来申間敷と申候に、又高橋古助様へも御尋候処、同様迚も出来申間敷と申候よし、予一条氏なとの義咄し申候」
万野原の開墾は並大抵のことではできない事だと周知されていたようです。晩年、桜岳は万野原に家を造り万農庵と称して移り住み、入植者を指導したと言われています。万野原の開墾が、ある程度軌道にのるようになったのは、桜岳の子角田大逸の時代になってからでした。
(5) 『駿河国新風土記』の補筆
『駿河国新風土記』は、駿河国の地誌で25巻からなり、著者は新庄道雄(1776~1835)で、文化13年(1816)に着手し、天保5年(1834)に完成しています。
25巻の構成は提要5巻、国府3巻、有度郡7巻、安倍郡5巻、庵原・益津郡各2巻、付録3巻(富士山2巻、郡名考1巻)から成り、富士郡と駿東郡が編さん時から欠けていました。桜岳はこれらの部分を補筆しようとして10余冊の草稿を作ったと伝えられています。
日記には、江戸在府中の天保13年8月25日の条に、
「八ッ半頃より文蔵めしつれ浅草芳屋町へ行、今泉半右衛門殿方位牌あつらゐ、夫本所朝川道斎子方へ行、同人ニ逢ひ駿河風土記下巻写をタノミ呉候様頼」
とあり、同年10月8日の条には、
「それより又道斎先生方へ行、暫咄し、元兵衛手本頼、又駿河富士新風土記写し出来不申由に付もち帰る」
とあります。朝川道斎(同斎)は桜岳が入門した朝川善庵の娘婿で、儒者であり書家でした。桜岳は道斎に駿河新風土記下巻の写を頼みましたができなかったようです。
また、天保14年7月18日には、
「五ッ頃より虎吉とするか新風土記富士の部よみ合はじむ、九ッ半過迄に虎巻よみ仕舞ふ」
とあります。「富士の部」とは「富士山の部」のことと思われ、桜岳は『駿河国新風土記』の「富士山の部」を書写していたものと思われます。
桜岳が欠落していた富士郡と駿東郡の部分を補筆したということは、今回解読した日記には出てきません。残念ながら、10余冊の草稿も現存していません。
4 『角田桜岳日記』を読む
(1) 町役人桜岳と日々の生活
江戸時代の大宮町は、ほぼ神田川から東西に分かれ東が御料所(幕府領)で、西が社領(浅間神社領)となっていました。さらに御料所は西町方と東町方に分かれ、桜岳の住む東町方は連雀・青柳・新宿・伝馬町で構成されていました。桜岳は東町方の町役人(百姓代、天保12年に組頭)を務めています。
町役人としての桜岳の仕事は、町内のもめ事や大宮町と周辺の村々との紛争の調停等でした。その調停が旨くいかない場合は御奉行所へ出訴ということになり、訴訟人の付添で駿府奉行所や江戸の奉行所まで出向くこともありました。
また、次のような場合もありました。天保15年2月12日に、万野原の家で疱瘡の病人があり、池西坊の弟子ケイエンといふ者が疱瘡治癒のまじないとして疱瘡棚を釣りました。その棚へ大鏡坊の弟子ホウケウが幣並びに札を納めた事から、池西坊と大鏡坊のもめ事となり、ホウケウの医学の師であった医師の武田圭碩と桜岳が間に入り解決しました。大宮町から遠く離れた村山で起きた池西坊と大鏡坊のもめ事で、桜岳には関わりがないことのようにも思えますが、わざわざ出向いて仲裁しています。
では、桜岳の日頃の生活はどうだったのかというと、決して健康的なものとは言えません。夜更かし朝寝は常のことで、酒は欠かすことがなかったようです。また、当時の大宮町では囲碁が盛んだったようで、あちらこちらで碁会が開かれ、桜岳も参加しています。
交際範囲が広くそこから得られる情報と、何事にも好奇心を持ち積極的に取り組む姿勢が、郷土の先覚者と言われる所以ではないでしょうか。日記の解読をすすめ、新たな桜岳像を発見したいと思います。
(2) 桜岳の使用した江戸切絵図(江戸での桜岳)
桜岳の江戸での寄宿先は「佐久間町三丁目」で、後に「馬喰町二丁目」に移っています。当時の江戸は路地が入り組み大変複雑な街並みをしていました。訴訟のために御役所へ出向いたり、治療のため蘭方医伊東南洋を訪ねたりする傍ら、見聞を広めるため江戸市中を歩き、知人を訪ねています。その時は、携帯に便利な小型切絵図を使用していたようです。嘉永から安政にかけて出版された「尾張屋清七版」・「近江屋五平版」の切絵図35点が残っています。
天保13年4月28日の条を見ると次のような順路で出かけています。この時はまだこれらの切絵図は出版されていませんでした。
四ッ過(午前10時過ぎ)より弐番町御役所へ行く
それより牛込御門をぬけ、筑土明神下伊東南洋子方へ行く
それより筑土明神同八幡宮へ参詣致し、伝通院へ参詣し、法蔵院を尋ねる
それより伝通院うら門杉浦勘ヶ由様方へ行く
それより片町へ出、それより湯島天神前池田寛三殿を尋、又跡へ戻り春木町へ行く
右方を出天神へ参詣し、妻乞へ出、神田金沢町天野屋へ行く
それより山田屋へ帰る
(3) 桜岳と麗山
桜岳は書画骨董を好み、庵原郡松野村に生まれ、山梨鶴山・柴田泰山とともに庵原三山と呼ばれた画家の神戸麗山(1802~1862)を寄宿させています。日記には桜岳と麗山が酒を酌み交わしながら富士山や曽我の話をする場面が多く見られます。天保13年5月29日の条には、
「夕方麗山子来り、祖父祖母様画像・母様画像等心懸置認メ呉候様頼ミ」
とあります。
麗山はこの時期大宮町や黒田村に滞在し、好んで富士山や白糸の滝の絵などを描いていたようで、大頂寺や桜岳の家などのふすま絵を描いています。
現在、富士宮市内に残る麗山の作品には、浅間大社で所蔵している「富士山奉納絵馬」(万延元年奉納)があります。また、村山興法寺三坊発行の「富士山表口真面之図」(初版)を描いています。
(4) 当時の食べ物
桜岳の時代はどんな物を食べていたのでしょうか。日記では「ふるまひはそば也」「酒を斟そばを出す」「そばを馳走になる」などと、そば(蕎麦)をよく食していたことが分かります。そうめん・うどん等も食べられていました。
魚ではビンナガ(鬢長鮪)・アジ(鰺)・ウナギ(鰻)・ドジョウ(泥鰌)などを食べていたようです。天子ヶ岳に登った際に宿泊した半野では、焼いたヤマメを肴に酒を呑んでいます。
とろろ汁は、「池西坊にてとろろ汁馳走ス」とか「今宵とろろ汁にて中西・元兵衛・東君又々経師やなとを呼ぶ」等とあり、人寄せの席で出された食べ物のようです。
桜岳の自宅で催した天保12年5月19日の酒宴では、次のような料理を出しています。
「こん晩料理こん立出しものあらまし左之通り
すひもの三つ、鯛みそ汁・あじにきのこしたじ又どぢよう汁、又つまみもの三品もの也、あじさんばひ・さしみ・からずし、鯛のいかた、鰺をたまごころはし、めしは平に猪口也」
天保12年4月18日の条には、
「西新町うなき買にやりたまこむし拵、うなき百六十四文・たまこ百三十弐文・肴百文又夕茶に牡丹もちをこしらひ、又たたみいわし味煮をもらふ」
などとあります。
桜岳の好物は「なつとう」?
桜岳は「なつとう(納豆)」を好んだようで、天保13年の江戸在府中に大宮より「なつとう」を取り寄せています。
9月13日「高瀬仁右衛門子来る、九日出立にて、昨日日本橋ひたちやへ着候由、同人東君・虎吉・街等之書状もち来り呉、又なつとう少々おこしもち来呉候」
10月5日「宅より出し候納豆熱海廻しの処、漸今日着、夜右のはいり来候箱をわり、おこうとのうつわものへいれなとす」
10月8日「渡辺様屋鋪へ行、鳥渡大島氏へ行、納豆進上し」
10月13日「予佐久間町へ帰、又植田屋へ行可申存候処、文蔵帰来る、諸帳面重く候ニ付、若宮生れのものにて喜兵衛といふものにかつがせ来る、家内の事なと無事なる由聞、安心いたし候、宅よりならつけ・なつとう・きん山寺みそ并にれん尺なともち来る」
この「なつとう」がどういう物であったのか定かではありませんが、日持ちする物のようですから、糸引き納豆ではなく乾燥した塩辛納豆だったと思われます。進物にする程の物でしたから、江戸では珍重されていた物かも知れません。
(5) 桜岳、天子ヶ岳に登る
桜岳は仲間とともに、天保12年2月11日から13日にかけて天子ヶ岳に登っています。その行程は次の様なものでした。
11日 朝八時頃家を出立、若の宮上を横きり宮原茶屋で休む→北山本門寺参詣→曽我八幡宮参詣→上井出→白糸滝水浴び→半野村遠藤安太郎殿家着
12日 五ッ過(朝八時)起る、昼飯後の九ッ半頃(午後一時)出立→左折→ハシナシ平→十一→まるび→クツかけ→頂上(小社・祠・ようらくつつじ)→六ッ半過(午後七時)鎌かた内野小屋→半野遠藤家
13日 五ッ過起きる、八ッ過(午後二時)迄酒宴、半野→上野(大石寺参詣)→淀師→家
行き帰りに寺社に参詣したり白糸の滝を見物するなど、物見遊山の旅でした。半野村の遠藤安太郎の家に宿泊し、翌日の午後天子ヶ岳に登っています。登山の記録には、山中の地名や地形、頂上の様子などが詳しく書き留められています。
「其頃この山一同野火ニ而すざましき事也、其頃柚野分入山といふ処のもの、其処へ同人通りかかる故は、入山郷へ火のいらん為野火をとめる由也、沢は三ツ又を植付候つもり故也となん、近年三ツ又高値ニ付入山へん金子出来致し候由なり」
「内野小屋といふは豆州松崎辺椎茸作りに来る、右の小屋也、凡椎たけ七八駄も出る由承る」
とある記載は、常に地域の産業に目を向け、地域の開発を考えていた桜岳らしさが現れた部分ではないでしょうか。当時三椏や椎茸の栽培が盛んに行われていた事も分かります。
(6) 蹲虎(そんこ)の碑奉納される
現在富士山頂に建てられている蹲虎の碑が奉納された様子が、天保13年の7月下旬から8月上旬の日記に出てきます。
7月25日に、施主の村山池西坊から完成した碑を見に来るようにと書状が来ます。
その日に蹲虎の碑を建る場所を見に石工乙吉と二人で大宮を出立した経師屋の要之助は、その夜は八幡堂か又は一ノ木戸小屋に泊まり、26日に頂上に登り、27日は頂上に留まり、28日村山へ下って泊まり、29日に帰宅しました。その時に要之助が見た蹲虎の碑は、その日のうちに一ノ木戸まで上ればよい方で、中々4・5日中に頂上に着くのは難しい状況だと言っています。
8月13日の条には、桜岳は次のように聞いたとあります。
「蹲虎の碑は登り始めてから十一日目の七日に無事頂上に登った。碑の上げ方は一合目から宝永山南西の方へ出し、それよりまっすぐに九合目まで上げ、胸付八丁の所は上から馬の荷縄などで引き、人足十六人はただ石の台のようになって肩へ載せただけで、下から押し上げるに従って足をはこび何の苦もなく上り、直様頂上へ建て一同は下山した。」
(7) 桜岳と富士山
村山口登山道跡の小屋跡に残る石造物に、次のような銘が刻まれた石造物があります。
「大宮角田屋
佐野与市
二又村世話人□蔵」
この小屋跡には全部で三体の石造物が残されており、その一つの不動明王に「瀧本前」と刻まれていることから、村山浅間神社の古文書の中に出てくる「瀧本・笹垢離小屋」の跡と思われます。
ここに刻まれている「大宮角田屋 佐野与市」の角田屋は江戸時代の桜岳の家の屋号で、桜岳の家は代々佐野与市を名乗っています。造立の年号がないのでこの与市が桜岳のことと断言はできませんが、登山道を管理していた村山三坊(池西坊・大鏡坊・辻之坊)が日記に度々登場してきますので、この与市は桜岳のことではないかと思われます。
桜岳という号は富士山の異名からとったと言われ、桜岳の富士山への思い入れは人一倍強いものがあったのではないでしょうか。
—角田桜岳略年譜—
年/年齢 | 内容 |
---|---|
文化12年(1815) | 連雀(現東町)に生まれる。 名は定経、通称与市、桜岳はその号。 |
文政6年(1823) 8歳 | 江戸に出て、儒学者朝川善庵に学ぶ。 |
天保元年(1834) 15歳 | 江戸より帰郷し、直ちに東町方町役人(百姓代)となる。 |
天保6年(1835) 20歳 | 洪水対策として万野原に大新堀(一番堀)と小新堀(二番堀)の設置を主唱する。 |
天保12年(1841) 26歳 | 東町方組頭となる。 |
天保13年(1842) 27歳 | 助郷免除の嘆願書を提出する。 |
嘉永元年(1848) 33歳 | 万野原の開墾及び芝川からの引水計画を立てる。 |
安政3年(1856) 41歳 | 「地球儀用法略」に駿河佐野与市の名前が見られる。 淀師の渋沢用水の水門が壊された時、その争いを解決する。 |
文久2年(1862) 47歳 | 万野原の「萬農庵」に居を構え、農事指導と近隣の子弟に読み書きを教える。 |
元治元年(1864) 49歳 | 助郷免除の嘆願が実る。 |
慶応元年(1865) 50歳 | 芝川よりの用水取り入れ口と水路の変更について、近くの村々六ヶ村との間で取り決め規定書を作る。 |
明治2年(1869) 54歳 | 長谷に士族専用井戸を掘る。 万野原新田の名主となる。 |
明治4年(1871) 56歳 | 角田の姓を名のる。 |
明治6年(1873) 58歳 | 六月、癰(よう)が悪化し死去。 |
(『富士宮市史』・『郷土の発展につくした人々』・『萬野区誌』参照)
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