ここからサイトの主なメニューです
ここからページの本文です

泉と古墳をたずねるコース 2018

2016年11月01日掲載

コース情報や探索会の様子などを写真付きで紹介。
当日時間の都合で話せなかったマニアックな情報も盛り込みました。

コース概要

日 時 平成30年10月10日(水)9時~12時
コース 泉と古墳をたずねるコース(歩く博物館Iコース・富士根南地区)より
集合場所 富士根南公民館(小泉1848-1)

1 久遠寺

久遠寺本堂久遠寺本堂

久遠寺は、富士五山の一つであり、建武2年(1335)大石寺を退出した日郷が、大石寺にあった蓮蔵坊(日目開基)の組織と機能を小泉の地へ移したのがはじまりとされます。開基年ははっきりと分かりませんが、暦応4年(1341)日郷の弟子である日叡が「小泉蓮蔵坊」に詣でている(『日蓮正宗富士年表』)ことから、建武2年から暦応4年の間ではないかと考えられています(『富士宮市史』上巻、なお寺伝では建武元年開基としています)。

歴代住職の墓歴代住職の墓

北山本門寺に伝わる三堂建立棟札(永仁6年(1298))によると、「小泉法華宗」「上野講衆」が建立に合力したとあり、鎌倉期から小泉の地には多くの日蓮宗信者がいたことがうかがえます。日郷が小泉の地に小泉蓮蔵坊を建立したのも、こうした背景があったのではないでしょうか。

本承坊跡(左)・東照大権現(右)本承坊跡(左)・東照大権現(右)

広い山内や南北に真っ直ぐ延びる長い参道、本堂跡の礎石などにかつての大寺の姿がしのばれます。また、現在は参道に沿って大乗坊(だいじょうぼう)があるだけですが、本堂跡脇には本承坊(ほんしょうぼう)の標石が残されており、盛時には参道沿いにいくつもの坊が並んでいたと考えられます。

参道から富士山を望む参道から富士山を望む

『駿河記」(文政3・1820)には「塔頭元十坊今四坊 本承坊 大忍坊 大乗坊 下之坊此坊妙圓寺兼帯」とあります。寺伝によれば、全盛期には妙栄坊・蓮蔵坊・本住坊・本浄坊・専蔵坊・教順坊・大恩坊・大乗坊・常照坊・信行坊・善了坊・慈円坊の12坊が軒を連ね、総門・黒門・山門・二天門・表門・赤門・出仕門・長屋門の八門を構えていたといいます。現在唯一残っている黒門は、寛保3年(1743)の建立で、現在地より0.5km南の参道にあったものを戦後移転したものです。

2 神祖(かんぞ)山の神古墳

基底径7-8m、高1.5m程の円墳と推定されています。東西のの裾部分は削られていますが、全体として保存状況は良好です。大室古墳と同じく古墳時代後期の古墳です。墳頂に山の神が祀られています。

神祖山の神古墳(左の森部分) 神祖山の神古墳(左の森部分)

神祖山の神古墳 神祖山の神古墳

3 上小泉八幡社

奥に本殿がある奥に本殿がある

社殿の西に湧水(市保存湧水池第2号)があります。『富士郡神社銘鑑』(昭和5・1930)によると「小泉」の地名はこの湧水によるとあります。
 
境内南の道端には寛政5年(1793)造立の双体道祖神が、境内と道を挟んだ東の方には市の保存樹に指定されているケヤキの大樹があります。

湧水地 湧水地

豊富な水量を湛える 豊富な水量を湛える

水神碑 水神碑

レンガ造りの建物

土蔵(上小泉遠藤家)土蔵(上小泉遠藤家)

明治政府は欧米先進国に追いつけ、追い越せと意気込み、文明開化・殖産興業に努めました。富士製紙・本州製紙富士根工場・源道寺の旧富士製紙といった企業や、沼久保松井家・上小泉遠藤家がレンガ造りの建物を作りました。こうした建物の一部は、市民の間に展開を見た文明開化の一つの証として大切に残されています。

4 上小泉の火の見櫓

上小泉の火の見櫓上小泉の火の見櫓

火の見櫓とは、「火災を発見するため、また、火災の際に、その遠近や状況をながめ、頂上につるした半鐘や太鼓を鳴らして近隣にそれを報知するためのやぐら」のことを言います(『日本国語大辞典』)。

現在ではほとんど使用されず、老朽化が進んだことなどから取り壊されたものもありますが、まだ富士宮市内には22基の火の見櫓が残っています。この火の見櫓は屋根の先に避雷針・風向計があり、屋根は四角で先端部がカールしているのが特徴です。他21箇所分については来年刊行の『富士宮市文化財年報』第9号(無料)に掲載していますので、ご覧ください。

5 大室古墳

大室古墳(現況)大室古墳(現況)

古くから存在が知られており、「小泉三室山神社古墳」や「小泉三室古墳」と呼ばれていました。昭和53年(1978)しないで最初の古墳の学術調査(墳丘確認調査)が実施され、その際に「大室古墳」と命名されました。

調査の結果、古墳時代後期の円墳であり、基底径15m程度、周濠(空濠=ほり)幅2m程度、墳丘の高さ3m程度と推定されました。現在は巨大な川原石を使用した横穴式石室の天井石が露出し、頂上に祀られている山の神社(やまのかみしゃ)への参道となっています。
※墳丘…土や礫などを積み上げて築かれた墳墓の丘。一般に古墳時代のもの(『日本国語大辞典』)

大岩丸ヶ谷戸の石像物群

妙泉寺墓地の道を進むと丸ヶ谷戸上組に2基の双体道祖神があります。右の道祖神には建立年銘がないですが、左には「大正10年(1921)正月 丸氏子中」と刻まれています。

道祖神(左)、如意輪観音像碑・青面金剛碑(右)道祖神(左)、如意輪観音像碑・青面金剛碑(右)

ここからさらに西に進むと文字道祖神が2基(安政5年(1858)・昭和11年(1936)建立)、馬頭観音碑が1基(昭和12年(1937))、甲子塔が1基、如意輪観音像碑が1基(元禄6年(1693))、青面金剛碑1基が並んでいます。

6 丸ヶ谷戸遺跡 丸ヶ谷戸遺跡前方後方形周溝墓(3世紀前半)

発掘調査中の丸ヶ谷戸遺跡(現在は見ることはできません)発掘調査中の丸ヶ谷戸遺跡
(現在は見ることはできません)

丸ヶ谷戸遺跡は、富士宮東高校から北方へ800mほど向かった弓沢川・滝沢川の合流地点を望む、細長い緩やかな丘陵に築かれた古墳時代の遺跡です。丘陵の中央に全長26mの前方後方形周溝墓(裏表紙)が位置し、西に一基、北に二基の方形周溝墓が見られることから、中央から北側にかけて古墳時代前期の墓域が形成されていました。なお前方後方形周溝墓は濃尾平野の文化の影響下に造られたものと考えられています。
 
遺跡の南側には区画溝が横断し、その周辺に竪穴住居跡八軒が見つかっています。

7 弓沢川掛樋

弓沢川掛樋弓沢川掛樋

妙泉寺の西側、弓沢川(一級河川)を跨いだコンクリート製の掛樋です。この周囲は弓沢川と大沢川(一級河川)の合流地点の丘陵部にあたり、取水地はこの掛樋から270m程登った大沢川にあります。用水はこの後欠畑方面に南下し、国道139号線矢立交差点を暗渠で横断、ここから170m下の弓沢川に放流されます。

なお富士宮市では昭和46年制定の普通河川条例に従って用水路に名前をつけています。芝川水系から取水するものをA(全174水路)、潤川水系から取水するものをB(190水路)に分けており、弓沢川から取水するこの用水は「B53」と呼ばれています。

8 寺内山ノ神(じないやまのかみ)古墳

山の神が祀られています山の神が祀られています

大室古墳と同じく古墳時代後期の古墳と考えられています。墳丘の大部分が失われているため貧弱な感が否めない。隣接する民家の塀を作るため削られた部分から須恵器が出土しています。また、民家との境に石室の一部と思われる石塊が露出しています。

9 虚空蔵社(こくうぞうしゃ)古墳

頂部に虚空蔵菩薩が祀られていることから命名されました。昭和50年代の区画整理事業の工事の際に発見されました。墳丘は少し消失していますが、石室は全長7~8m前後の規模と推定され、天井石らしい大礫が数個露出しています。

虚空蔵社古墳入口。入口に看板がある 虚空蔵社古墳入口。入口に看板がある

近くで天神が祀られる 近くで天神が祀られる

虚空蔵社古墳内の神社 虚空蔵社古墳内の神社

お問い合わせ

教育委員会事務局 教育部 文化課 埋蔵文化財センター

〒419-0315 静岡県富士宮市長貫747番地の1

電話番号: 0544-65-5151

ファクス: 0544-65-2933

メール : maibun_center@city.fujinomiya.lg.jp

表示 : モバイル | パソコン

ページの先頭へ戻る