世界遺産としての富士山へ

世界遺産富士山

富士山と信仰

2014年09月02日掲載

古くから遥拝の対象とされてきた富士山と信仰の関係について

1, 古から繰り返された噴火

古から日本人は、噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は、恐ろしく且つ神秘的な山と考えられたために、古くから遥拝の対象であった。
富士山周辺には、富士山を意識したとされる(学説)1万3千年前~1万4千年前の住居址や配石遺構がいくつか発見されている。その後、日本における古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り返す噴火を鎮めるため、富士山そのもの或いは富士山に鎮座する神を「浅間大神」として祀るようになり、各地に遥拝所としての浅間神社が建立され、国家の宗教政策の一端に位置づけられるようになった。

2, -修験道- 日本古来の山岳信仰と外来宗教の習合及び普及

末代上人末代上人

12世紀頃より噴火活動が沈静化したことで富士山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した修験道の道場ともなり、修験者などが山中に分け入り、霊力を獲得するための修行する山へと変化していった。
この頃修行を行った人物として、数百度登山し、山頂に大日寺を構えたとされる末代上人(まつだいじょうにん)が有名である。
当時一般的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世界(または仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂部に至ることが重要な意味を持つようになった。この結果15~16世紀には、修験者に引率された衆人による信仰登山が盛んになり、登拝する山として一般に広く知られるようになった。登山道はいずれも14~15世紀後半に開かれたとされている。この頃には参詣の道者のための宿坊も出来始め、大勢の登山者のための整備が整い始めた。

絹本著色富士曼荼羅図 (国指定重要文化財)

絹本著色富士曼荼羅図

富士山を画面上部に正面からとらえ、麓から山腹にかけて「富士山本宮浅間大社」「村山浅間神社」「御室大日堂などの堂社」を描き、これらの堂社に参拝したのち、富士山に登る人々の様子が描かれている。富士山頂には、如来や菩薩の姿があり、神仏習合の信仰の様子がわかる。

室町時代後期
狩野派(狩野元信 壷型朱印)
原寸:縦186.6×横118.2センチ
富士山本宮浅間大社所蔵

3, -富士講- 登拝の大衆化

長谷川角行の御札長谷川角行の御札
(赤池家発行)

17世紀前半、約150年にわたる日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し経済的な発展もあり、より多くの人が富士山を目指すようになった。
このような中で、16~17世紀に富士山体や周辺の風穴(特に「人穴」)などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行は、江戸を中心とした庶民の現世利益的な要求にこたえて、後に「富士講」と呼ばれる富士信仰の基礎をつくったとされる。
角行の法脈は弟子たちに代々受け継がれたが、とりわけ村上光清と食行身禄が後の「富士講」発展に大きく寄与した。村上光清は山麓の浅間神社などを修理し、当初身禄派を凌駕していた。食行身禄は、庶民の苦しみを救うという世直しの理想のため、吉田口登山道七合五勺の烏帽子岩で入定を遂げたが、これが後の富士講隆盛の画期となる。その教えは、次第に呪術性を脱却し、筋道の立てられた教義をもとに独自な実践道徳をもつものとして発展していき、18世紀中頃には民衆の宗教的団結を警戒した政府より「富士講禁止令」が出されるほどに広がりをみせ、組織化されていった。

富士講信者や他の登拝者は原則として固定的・継続的関係を持った「御師(宿坊を経営する神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈祷や宗教的指導を受け、湧水等で水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した。登山道には茶屋や山小屋が建てられ、多くの参拝者の活動を支える施設が体系的に整備されたのもこの頃である。また、富士講においては長谷川角行ら指導者の言動にならって周辺の風穴・溶岩樹型や湖沼・滝なども修行の地とされ、ここにおいても富士山と周辺の宗教施設・霊地・巡礼地は庶民の信仰の場として定着し、山の結界が開放される二ヶ月間に年平均1~2万人の人々が信仰を目的とした登山を行うようになった。

「人穴」風穴 角行修行の場「人穴」風穴

御法家赤池家 明治時代の御法家「赤池家」

4, 廃仏毀釈後 登山の利便性向上

三島岳周辺の石造物廃仏毀釈の影響で壊された石造物
(三島岳周辺に集められた仏像)

19世紀中頃より、明治政府を中心に行われた日本の近代化・西欧化政策は富士山信仰にも影響を与えた。政府が神仏分離や修験道禁止の方針を打ち出したことや、これを契機に発生した廃仏毀釈の運動により、仏教的施設は神道系の施設に再編されたが、1872年の女人禁制解禁の影響もあり富士山への登拝は継続ないし拡大した。
19世紀末以降の鉄道・自動車道の開通も、登山者の利便性を格段に向上させた。南麓へは1889年に東海道線が開通し、北麓へは1900年前後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東京からの登山がさらに活発になった。自動車道としては、1929年に北口本宮冨士浅間神社から馬返(標高1,450m)まで自動車専用道路が開削され、1937年には大型バスによる輸送も始まった。

村山大日堂前の古写真 明治35年の村山大日堂前の様子

中宮八幡堂の古写真 明治35年の中宮八幡堂の様子

第二次大戦以降、富士山への登山は、富士信仰の核心を受け継ぎつつも、日本人の価値観や経済状況の変化により、登拝を中心としたものから、富士山への憧れを主な動機とするものに変化した。また、1964年に中腹までの自動車道として、北麓の富士スバルラインが、1970年に南麓の富士山スカイラインが開通し、これ以降、中腹(標高2,300~2,400m)を起点とした登山が主流になった。この結果、富士山への登山者は急増し、年間約30万人に達するに至った。

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