教育・文化・スポーツへ

市民の皆さんへ

「狩宿の下馬ザクラと井出家」展

2019年12月10日掲載

国指定特別天然記念物「狩宿の下馬ザクラ」や市指定有形文化財「井出家高麗門及び長屋」の由緒等を通じ、その所有者である井出家の歴史を紹介します。


 狩宿の井出家は、鎌倉時代のはじめに当地周辺が舞台となったとされる「富士の巻狩」に深く関わりを持つとの伝承があります。『吾妻鏡』によれば、建久4年(1193)5月15日、源頼朝は藍沢(御殿場市付近)での狩を終え、富士野の御旅館へと移動したとあり、この富士野の御旅館こそが狩宿の井出家周辺であると伝えています。

狩宿の下馬ザクラ

狩宿の下馬ザクラ狩宿の下馬ザクラ

建久4年(1193)に源頼朝が、富士の巻狩を行った際、馬からおりた所とされたことから狩宿の下馬ザクラと呼ばれるようになったと伝えられています。下馬の際、桜に馬をつないだとも言われていることから「駒止めの桜」という別名も存在します。
富士山南面裾野上部における白山桜の一変形に属する代表的巨木で、若葉は赤色、花は初め淡紅色、後白色となります。
樹齢は800年を越えるとされ、往時は樹高35m、幹囲り8.5mの巨木であったといわれます。
しかし、近年台風などの影響で最盛期の姿にはありません。開花時期は例年4月中旬頃です。

狩宿の下馬ザクラを記した資料

文政3年(1820)に韮山役所へ提出されたもの。北枝6間(約10.9m)、南枝5間3尺(約10m)、西枝6間2尺(約11.5m)、東枝3間2尺(約6m)、高さ6間8尺5寸(約13.5m)、根回り3間3尺(約6.3m)と報告されています。

狩宿の下馬ザクラを記した資料狩宿の下馬ザクラを記した資料

狩宿の下馬ザクラ古写真(大正~昭和)

狩宿の下馬ザクラ古写真1

狩宿の下馬ザクラ古写真2

狩宿の下馬ザクラ古写真3

狩宿の下馬ザクラ古写真4

富士の巻狩

建久4年(1193) 5月、源頼朝は東国武士の武力を天下に見せつけようと富士山麓で大規模な狩りを催しました。いわゆる「富士の巻狩」です。巻狩とは、馬を駆り、大勢の勢子が追い詰めた獲物を弓で射る形式の狩猟で、当時の武士にとっては武術鍛錬の意味合いがあったとされます。富士の巻狩も、狩猟を楽しむというより、将軍頼朝の指揮下に行われた大軍事演習の意味合いがそこにあったと考えられています。
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』によると、建久4年5月8日から6月7日にかけて巻狩が行われ、5月15日からは「富士野御旅館」に移動し巻狩が続けられたといいます。この「富士野」とは現在の朝霧高原を含む富士宮市北部一帯と考えられています。
また、井出家周辺の地域は「狩宿」と呼ばれ、『吾妻鏡』には、頼朝の宿舎「富士野御旅館」は南向きに建てられた五間の仮屋であり、御家人の宿舎が並んでおり、これらの建物は北条時政らの指揮により伊豆国・駿河国の御家人が造営したといいます。

富士の裾野巻狩之図富士の裾野巻狩之図

富士の巻狩伝承地

陣馬の滝 陣馬の滝

矢立池の碑 矢立池の碑

曽我の仇討ち

建久4年(1193)源頼朝が行った富士の巻狩の最中、曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟が親の仇である工藤祐経を殺害する事件が起きます。この事件については、『吾妻鏡』に記述がみられますが、「曽我兄弟の仇討ち」として知られるようになるのは『曽我物語』によるところが大きく、その後、実際の事件が脚色されて広まり、江戸時代には歌舞伎の演目などで人気を博しました。
曽我兄弟の仇討ち伝説は、以下のように伝えられています。
安元2年(1176)10月、伊豆奥野で狩を催した折、伊東荘の領主伊東祐親の嫡子河津三郎祐泰が、所領争いを演じていた一族の武士工藤祐経の家来に殺されます。あとに遺された五歳の一万丸と三歳の筥王丸の兄弟は、相模の武士曽我太郎祐信と再婚した母とともに曽我の荘で育ち、元服して兄は曽我十郎祐成、弟は曽我五郎時致と名乗り、十郎は大磯の遊女虎御前と契りを結び、敵討ちの好機を狙いつづけます。
建久4年5月28日の夜、工藤祐経の宿舎に押し入った曽我兄弟によって祐経が殺害されるという大事件が起こりました。この仇討ち事件に巻き込まれ、偶然居合わせた王藤内をはじめ多数の死傷者がでます。仇討ちを果たした後、兄弟は源頼朝の宿舎にも押し入ろうとし、兄は新田四郎忠常に討たれ、弟は女装した五郎丸によって捕らえられ翌日処刑されたといいます。

音止の滝 音止の滝

曽我の隠れ岩 曽我の隠れ岩

曽我八幡宮と縁起

曽我八幡宮絵葉書曽我八幡宮絵葉書

「曽我八幡宮」は、富士宮市上井出の上原(わはら)と呼ばれる地域にあります。主祭神は応神天皇で相殿として曽我兄弟が祀られており、祭壇には、応神天皇の騎馬像を挟んで曽我兄弟と虎御前の木像が安置されています。社伝によれば、建久8年(1197)源頼朝が兄弟の孝心に感じ兄弟の英霊魂を祀るよう畠山重忠を遣わし、渡辺主水に命じて祀らせたと伝えています。また、応神天皇の木像は配流時代の頼朝に関わるという文覚が刻んだものだといい、兄弟の像は丹波法眼によって作られたと伝えています。
江戸時代、歌舞伎などで「曽我物語」が人気になると、兄弟の木像および兄弟ゆかりの品が江戸で出開帳され、 その浄財が神社の修復に充てられたといわれています。
神社は非業の死を遂げた曽我兄弟の御霊を鎮魂する目的のもとに創建されたとものと考えられますが、富士山麓にはほかにも曽我兄弟を祭神として祀る「曽我八幡宮」がいくつかあります。
富士市厚原所在の「曽我八幡宮」には、上原の「曽我八幡宮」と同様に神社の縁起が残されています。それによれば、曽我兄弟が親の敵を討ってから四年後の建久8年(1197)に、源頼朝が岡部権守泰綱に命じ、兄弟の霊を鎮めるために建立されたと伝えられています。
その他、江戸時代に上原の「曽我八幡宮」を分祀したといわれる北山中井出と北山桟敷にもこの「曽我八幡宮」があります。また、猪之頭の「曽我八幡宮」は「鷲鷹八幡宮」とも呼ばれ、曽我兄弟が討たれると鷲鷹がやってきて兄弟の大事な臓腑をくわえて飛び去り、ここに葬ったと伝えています。

富士宮の戦国争乱

戦国時代、富士宮は駿河国(現静岡県)の今川氏、甲斐国(現山梨県)の武田氏、相模国(現神奈川県)の北条氏らの争う場所となりました。天文6年(1537)、今川氏と武田氏が同盟を結んだことにより、北条氏が今川氏領国へと侵攻を開始し、駿河国東部の各地で戦いが起こりました(河東一乱)。この軍事的緊張状態は、天文14年(1545)に今川義元が河東地域の支配を回復し、その後、駿甲相三国同盟が成立するまで継続しました。
永禄11年(1568)には武田信玄が三国同盟を破棄し、駿河国へと侵攻を開始し、今川氏真は駿府を捨て、遠江国掛川城(現静岡県)へと逃れました。浅間大社の大宮司・富士氏など、一部の勢力が抵抗しましたが、駿河国は次第に武田氏の支配下となっていきました。

戦国時代の井出家

戦国時代の井出家は狩宿の井出家をはじめとして、複数の系統による活動が確認されています。 狩宿の井出家では、河東一乱の際に今川氏方について戦ったことにより、富士上野における関銭(通行料)の徴収や下方の所領が保証されています。また、資料には井出家の所領として、「道地名」(現北山か)、「かり宿名」(現狩宿)、「辻名」(現北山辻)、「窪地名」(現精進川久保地)などの地名が見え、年貢などの税を地頭へと納めていたことが分かります。
他の系統も同族として、富士郡内を中心に活動していました。「大宮々中奉行職」、「富士上方職奉行」といった役職に就いていたほか、武田氏が大宮城を攻撃した際には、大宮城に籠城して戦っていたことが分かっています。

今川義元朱印状(井出右京亮あて) 今川義元朱印状(井出右京亮あて)

今川氏真判物(井出伝右衛門あて) 今川氏真判物(井出伝右衛門あて)

江戸時代の井出家と狩宿

江戸時代初期、富士郡出身の井出氏の人物として、井出正次がいます。正次は徳川家康が甲斐国へ侵攻した際に代官として登用され、その後、駿府町奉行などの要職も勤めました。正次は富士郡を本拠地とし、狩宿の井出氏と同族の可能性がありますが、その系譜関係は不明です。
狩宿の井出氏は、江戸時代になると帰農し、狩宿村の名主となりました。狩宿村は当初は幕府領、元禄11年(1698)からは旗本杉浦氏領となります。石高は約85石で、産物としては、茶、煙草、三椏などがありました。
また、江戸時代の地誌の狩宿の項目には、源頼朝の富士の巻狩にまつわる地名や井出氏との関わり、下馬ザクラの由来等が記されています。こうした由来が江戸時代にも伝承されていた様子を窺うことができます。

井出家高麗門及び長屋

井出家高麗門及び長屋井出家高麗門及び長屋

井出家は、鎌倉時代以降、本地域の有力者として、経済・社会・文化の発展に寄与してきたと考えられています。戦国時代までは武士(国人・土豪)身分でしたが、兵農分離政策により江戸時代には百姓身分となり名主役を勤めています。
屋敷の高麗門は城郭の門に用いられる様式をもつもので、武士としての井出家を象徴するものといえます。長屋は江戸時代の上層農家に見られる建物です。井出家の長屋には、北の棟に作業部屋や前蔵があり、南の棟に堆肥部屋や農耕用・輸送用に馬を飼育するための厩がありました。
井出家の邸宅は安永5年(1776)と寛政9年(1797)に焼失したとする記録があります。この火災により高麗門及び長屋も罹災しましたが、焼失後の再建については北長屋から発見された墨書により嘉永元年(1848)の建立であることが判明しています。

井出家高麗門及び長屋の修復整備工事

「井出家高麗門及び長屋」は平成7年(1995)に富士宮市指定文化財に指定されましたが、経年劣化により、茅葺屋根をはじめ、建物の土台部分など、各所に破損が生じていました。
そこで、富士宮市では、平成27年度に建物の修復整備工事を実施しました。工事では、南北長屋の茅葺屋根葺き替え、高麗門の杮(こけら)葺屋根葺き替えを主とし、木部の補修、耐震補強、建具補修等を行いました。茅葺屋根には、文化庁の「ふるさと文化財の森」に設定されている朝霧高原茅場の茅が用いられました。
工事に際しては、建物の調査結果や古写真等の資料に基づき、外壁を漆喰から板壁にしたり、南長屋に柱を設置したりする等の復原が行われました。

修復整備工事の様子 修復整備工事の様子

南長屋(修復整備前) 南長屋(修復整備前)

南長屋(修復整備後) 南長屋(修復整備後)

井出家に伝わる桜の詠歌

井出家邸内の高浜虚子句碑井出家邸内の高浜虚子句碑

古くから桜の名所と知られていた狩宿の下馬ザクラ(駒止めの桜)には、多くの文人や画人らが訪れ、逗留もしています。
明治期、徳川幕府最後の将軍であった徳川慶喜は、「あはれその駒のみならず見る人の 心をつなぐ 山桜かな」 と詠じており、この和歌をしたためた掛軸が井出家に伝えられています。
また、大正12年(1923)に元帝室技芸員邨田丹陵(むらたたんりょう)によって描かれた版画も残されており、この画の上部には「狩宿の下馬ザクラ詠歌」五十六首が添えられています。これらを含む下馬ザクラを詠んだ和歌を纏めた詠歌集「花の八重垣」が井出家に残され、往時の桜の優雅を伝えています。
昭和30~40年にかけては、高濱虚子や富安風生などの著名な俳人が訪れ、下馬ザクラを詠んでいます。

表示 : モバイル | パソコン