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火伏念仏と内野区の歴史をめぐる特別コース

コース情報や探索会の様子などを写真付きで紹介します。

~火伏念仏と内野区の歴史をめぐる特別コース~

日 時 平成30年3月14日(水)13時~16時
コース 昔話の里を歩くコース(歩く博物館Kコース・白糸地区)より
集合場所 法蔵院駐車場(富士宮市内野325)

「内野」という地名は、戦国時代からその名前を確認することができます。武田信玄の朱印状には、内野や半野などに住む百姓が、大宮城などの築城に必要な葺板・材木を調達させる代わりに、ほかの普請役を免除されたとあります。

江戸時代には内野村と呼ばれており、主な産物は三椏(紙の材料)や茶・芝川海苔でした。明治22年(1889)に佐折村・原村・半野村・狩宿村と合併して白糸村に、白糸村は昭和33年(1958)に富士宮市と合併しました。現在は市の大字として名前が残っています。

1 法蔵院

『駿河志料』によれば先照寺(市内大中里)末の曹洞宗寺院であり、山号を「大安山」、本尊は地蔵菩薩であったとされます。内野区には同じく先照寺末の積善寺(明治初年廃寺)や大乗院等がありました。現在の堂舎は文化14年(1817)の焼失後の再建で、年代は庫裏が文化14年再建・本堂が昭和8年(1771)です。

法蔵院の縁起によれば、最澄が当地を訪れた際に地域の人々に地蔵を遣わし、人々が堂舎を建てて地蔵を祀ったことが起こりとされています。のち堂舎は法蔵庵・法蔵院と名前を変えますが、最澄を開山の契機とすることから、室町時代頃までは天台宗であったと言われます。それが文明年間(1469-1486)、先照寺三世(栄崇祖繁)により曹洞宗に改められました。

また法蔵院では、夏に川施餓鬼供養を行った後、芝川へ行き、大きなカワカンジョウに火をつけて流します。この行事には先祖供養の他に、水難者供養の意味もあります。

法蔵院における解説の様子 法蔵院における解説の様子

カワカンジョウを燃やす(平成29年8月16日撮影) カワカンジョウを燃やす(平成29年8月16日撮影)

2 内野北谷戸の道祖神

道祖神とは、集落の境目などに多く祀られている神様で、集落内に疫病や災害が入り込むのを防いだり、道や行路の安全を祈ったりする神として信仰されています。現在富士宮市内では約400体の道祖神が祀られており、これはその一つです。

北谷戸の道祖神は、明和8年(1771)に造立されたもので、それぞれ僧形で合掌しています。道祖神の横には石祠が祀られています。石祠を祀る事例は白糸地区でも確認できますが、道祖神との明確な関係は不明です。ただ、山梨県内の富士川流域では、石祠を道祖神として祀る場所があることから、山梨県の道祖神信仰の影響を受けた可能性が考えられます。

道祖神(左)と石祠(右)道祖神(左)と石祠(右)

4 内野神社

内野神社は地域内にあった伊勢神明宮、天神社、山神社、横手沢の熊野神社、足形の熊野神社の5つの神社を合祀した神社です。昭和46年(1971)に、山神社があった場所に創建されました。

地域内の神社を合祀したため、境内には合祀された各神社から集められた石灯籠や橋、幟杭があります。境内の西側にある八坂神社もその一つで、これはもともと伊勢神明宮の境内に祀られていたものです。

境内に合祀された石祠 風の神(左)と八坂神社(右)境内に合祀された石祠
風の神(左)と八坂神社(右)

9 内野の火伏念仏

内野の火伏念仏は毎年1月18日に内野地区・3月14日に足形地区に行われている火災除けの念仏で、平成11年に富士宮市指定無形民俗文化財に指定されています。かつては佐折や根原、人穴でも行われていましたが、現在は内野・足形地区のみとなっています。昔、集落全体で火災に遭ったことがあり、そのようなことが二度とないようにと始められたとされています。

過去1年の間に新築した家を頭屋(当屋)とし、その家で行います。新築した家がない場合は、改築した家や、前年やりたくてもできなかった家等で行います。当日の朝から人々は頭屋に集まり、六斎衆と呼ばれる念仏講の人々を中心に、飾付や投げ餅用の餅の準備をします。

祭場には注連縄が張り巡らされます。一番外側には「オシメ」・「オシンメ」などと呼ばれる普通の三段に切った幣帛を吊るし、4ヶ所に五段に切った「四天王」、中央には巨大な七段に切った「大天狗」と呼ばれる幣帛を吊るします。祭場の正面には阿弥陀三尊(阿弥陀如来、勢至菩薩、観世音菩薩)の掛軸が掛けられています。

「大天狗」(太鼓の上)・「四天王」(左)・「オシメ」(前面6つ)。奥に掛軸 「大天狗」(太鼓の上)・「四天王」(左)・「オシメ」(前面6つ)。奥に掛軸

実際に使用する鉦 実際に使用する鉦

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