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富士宮市ゆかりの作家 曽宮 一念

2018年02月21日掲載

富士宮市ゆかりの作家 曽宮 一念について掲載しています。


富士宮市を終のすみかとした曽宮一念(1893~1994)は日本近代洋画の確立期を形づくった代表的な画家のひとりでした。
権威を嫌い世俗や時流に媚びず詩魂を描きこんだ独自の画風は、当時より洋画壇を代表する売れっ子として注目され、多くの友人との交流を通じて全国各地にモチーフを求め作品を残しました。

「山畑に三椏におう」 曽宮 一念「山畑に三椏におう」 曽宮 一念
(富士宮市収蔵品)

略年譜

概要
1893年(明治26年) 東京・日本橋に生まれる。
1911年(明治44年) 早稲田中学校を卒業。
東京美術学校西洋画科に入学。
1913年(大正2年) 光風会へ「桑畑」を出品。
1914年(大正3年) 第8回文展に「酒蔵」が入選。
1915年(大正4年) 画家中村彝に兄事。
1916年(大正5年) 東京美術学校西洋画科を卒業。
教授に黒田清輝、藤島武二、和田英作、長原孝太郎、同級生に耳野卯三郎、鈴木保徳、寺内萬治郎らがいた。
1916~18年(大正5~7年) 東京の私立成蹊中学校講師。
1918~19年(大正7~8年) 福島県の私立石川中学校講師。
1921年(大正10年) この年より二科会へ出品。
1925年(大正14年) 第12回二科会樗牛賞を受ける。
1931年(昭和6年) 二科会会員。
1935年(昭和10年) 独立美術協会員。
1944年(昭和19年) 静岡県吉原市に疎開。
1945年(昭和20年) 富士宮市に移る。
1946年(昭和21年) 国画会会員。 文展審査員。
1957年(昭和32年) 浜松において曽宮一念、耳野卯三郎、鈴木保徳、寺内萬治郎、石橋武治、高間惣七の6人で、六鳥会展を開催。
1958年(昭和33年) 随筆「海辺の熔岩」が日本エッセイストクラブ賞を受ける。
1965年(昭和40年) 視力障害のため自ら国画会を退く。
1967年(昭和42年) ヨーロッパスケッチ旅行。
1971年(昭和46年) 失明、画家を廃業。
1994年(平成6年) 死去。

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