ここからサイトの主なメニューです
ここからページの本文です

山本勘助ゆかりの地 -山本勘助とその時代-

2013年03月14日掲載


勘助イラスト山本勘助(やまもとかんすけ)

山本勘助は、明治以降架空の人物ではないかと言われてきました。それが、昭和44年のNHK大河ドラマ「天と地と」をきっかけに、北海道で発見された市川家文書(信玄書状)に「山本菅助」という名前が出ていたので、山本勘助は実在の人物だといわれるようになってきました。でも、市川家文書の菅助と『甲陽軍鑑』の勘助とが果たして同一の人物であるのか、『甲陽軍鑑』の勘助は、江戸初期の甲州流軍学者小幡景憲(おばたかげのり)によって脚色されていのるではないかなど、未だに疑問の多い人物です。しかも、誕生地も、生年も、その後もどうなっているのか謎の多い戦国ロマンの人物です。その勘助のふるさとである富士宮、勘助の育った山本とはどのような所であるのか、そうしたことを紐解きながら勘助の存在について考えていきたいと思います。

吉野本家遠景(よしのほんけえんけい)

吉野本家遠景

高原台地の麓(山本)に、勘助が生まれたといわれる吉野家があります。道路に沿って高い石垣があり、その上に現在の吉野家があります。そのもう一段高い所に、昔の屋敷跡があったと言われています。勘助当時の吉野家は、今より一段高い大宮断層の棚状の所に位置し、非常に急峻な崖を後ろに控え、前面には田圃が広がり、その先は潤井川になった要害の地です。戦国武将が居館を構えるとしたら、こうした地の利を得た所であったのではないかと思います。 ここに居を構えたのは、勘助の曾祖父に当たる吉野浄雲入道貞倫(よしのじょううんにゅうどうさだとも)だといわれています。

山本八幡宮(やまもとはちまんぐう)

山本八幡宮

現在は山本八幡宮といわれていますが、この八幡宮を多田八幡宮(とうどのはちまんぐう)ともいい、この社の森を「多田森(とうどのもり)」といっていました。多田八幡宮とは多田満仲源満仲(ただまんじゅうみなもとのみつなか)を祀った源氏の氏神です。この八幡宮を勧請した吉野貞倫が、源貞倫と源氏を名乗っていますので、源氏の氏神を祀ったものと考えられます。また、山本八幡宮は、吉野家から見ますと丑寅の方角、鬼門に当たりますので、吉野家の鬼門封じの神社であったのではないかと思われます。  吉野家の東一帯は、昔は潤井川の氾濫原になっていたのではないかと考えられ、江戸時代の伝説には、「山本から天間にかけての一帯は、潤井川が幾筋にも別れて流れ、中州がいくつもあり、たくさんの魚が捕れた。」と語られています。昔は吉野家の前面は潤井川の氾濫原で、その原頭部、始まりの所に八幡宮が建てられています。それは、潤井川に沿った地域の開発を進める村の鎮めでもあったといえます。
住所:〒418-0023 富士宮市山本字谷戸1

山本八幡宮の厨子(やまもとはちまんぐうのずし)

厨子

山本八幡宮の本殿には立派な厨子があります。神社に仏を祀る厨子があるというのは、ちょっと似つかわしくないと思います。八幡宮(はちまんぐう)というのは、本来は八幡神(やはたのかみ)で日本古来の農業の神でしたが、仏教と習合して江戸時代までは八幡大菩薩といわれていました。八幡宮の神は、江戸時代までは仏(菩薩)で厨子に祀られていたのです。  この厨子は、嘉永6年(1853)に造られたといわれ、白木造りに繊細な彫刻が施された美しい建造物です。

吉野本家近景(よしのほんけきんけい)

吉野本家近景

吉野家の母屋は建て替えられていますが、正面には古くからの長屋門が残されています。吉野家は戦国時代葛山氏に仕える武将として活躍していました。葛山氏に従い現在の沼津市辺りでの北条氏との戦に出陣し、葛山氏から知行を得、今川氏から感状を賜るなど、戦国時代は武士として活躍してきました。江戸時代になると、身分制度の中地方武士の多くは農民に格付けされました。吉野家も百姓身分に格付けされましたが、上層農民として代々地域の名主を務めてきました。その当時の名残をとどめるのが長屋門です。

石の宮(いしのみや)

石の宮

石の宮は、山本の南端で、勘助の父山本貞幸が居を構えた所だといわれています。現在山際に王子製紙の発電所が造られていますが、ここも吉野家の所と同じように裏が大宮断層の崖で前面は潤井川です。  石の宮は、孤立した集落で裏が山で前が川という、中世武将の住まいに適したいい所であったと考えられます。勘助の父山本貞幸が、吉野家から分家して石の宮に居を構えたということは、勘助はここで生まれ育ったという可能性もあるのではないでしょうか。

勘助坂(かんすけざか)

勘助坂

山本家の屋敷は断層崖の麓に建っていましたし、前の潤井川には今のような橋はありませんでした。ですから、屋敷から外へ出て行くには切り立った崖を登っていかなければなりません。その崖道を勘助坂と呼んでいます。勘助坂は勘助が子供のころ遊んだ所だといわれていますが、勘助はこの坂道から世に出て行ったのですから、勘助の出世坂といってもいいのではないでしょうか。 勘助坂は、断層崖を登って行く非常に険しい坂道です。現在は小さな車なら通れる程度の道になっていますが、かつては非常に急峻な狭い坂道でした。

富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)

浅間大社

勘助のふるさとを山本から少し広げて、勘助当時の現富士宮市がどんなであったか考えてみましょう。勘助は天文12年(1543)に武田信玄に仕えたといわれていますので、その天文年間(1532~1555)ころの現富士宮市のことです。  天文年間というのは、河東一乱といわれる今川と北条の勢力争いに武田が加わり、河東一帯は不安定な地域でした。河東というのは、駿河国の川(富士川)の東ということで、現沼津市から富士市・富士宮市にかけての一帯です。天文6年(1537)に、武田信虎が娘を今川義元に嫁がせ駿河と甲斐が同盟を結びました。それを危惧した北条氏康が、いち早く河東に進出してきました。それに対抗して今川が河東に兵を進め、天文14年(1545)には武田勢の応援を受けて河東一帯を挽回しました。天文23年(1554)には、今川義元・武田信玄・北条氏康の三将が現富士市今泉の善得寺(明治維新廃寺)で対面し盟約を結んで、河東一乱は収束したといわれています。 善得寺での三将会盟は有名な話で、善徳寺跡(江戸時代に得の字を徳に変えた)には大正13年に建てられた「善徳寺址」の碑があります。しかし、それが事実であるかは疑わしいともいわれています。天文21年(1552)ころから三将は互いに娘を嫁に出して同盟を結んでいたということで、会盟があったかどうかは別にして天文23年ころには三国が同盟関係に入ったことは確かだといわれています。勘助は、そういう時代に武田の軍師として仕えたといわれていますが、三将会盟といわれるようなときに、立役者となったのが今川義元の軍師雪齋だということで、勘助の名前が出てきません。勘助は天文12年に武田に仕えた軍師だといわれるので、天文23年ころはまさに活躍時期ではなかったかと思われるのですが、勘助の名前が出てこないということは武田の軍師といわれる勘助の存在が気になるところです。しかし、三将会盟のことを記しているのがほとんど北条の記録で、そのことも気になるところです。  河東一乱の時期、現富士宮市では浅間大社がこの地域の大きな勢力であったと考えられます。現浅間大社の社殿は徳川家康によって、関ヶ原合戦の跡に造られたもので、本殿は重要文化財に指定されています。天文年間には、現在のような立派な建物はなかったと考えられますが、神社の東現大宮小学校の辺りに堀に囲まれた大宮司居館(大宮城)があり、宗教的権威だけではなく領地を持ち武力を蓄えた世俗的な権威を持った存在でした。ですから、河東一乱の時には進出してきた北条勢と小泉辺りで戦い追い払ったということで、今川義元から感状を賜っています。  勘助当時の浅間大社大宮司が、現富士宮市・富士市に勢力を張る存在だった考えられます。大宮城には、普段は大宮司の住まいで何人かの家来がいたと考えられますが、一旦事があると現富士宮市・富士市辺りから寄子(よりこ)(家来)といわれる大勢の武士が集まってきました。それは、江戸時代の浅間大社流鏑馬の時に騎馬武者が集まって来るような姿であっただろうと考えられます。江戸時代の流鏑馬には平侍(ひらさむらい)の服装をした流鏑馬役が馬に乗り、鎧武者・鎗持ち・草履取りなど十人余の家来を引き連れてやって来ました。それは、加島(現富士市西部)から五騎・下方(現富士市東部)から五騎・上方(現富士宮市・芝川町)から五騎となっていました。そういうように寄子を集めて世俗的な権威も兼ね備えたのが、当時の浅間大社であったと考えられます。

村山浅間神社(むらやませんげんじんじゃ)

村山浅間神社

村山浅間神社では、7月1日の富士開山祭に京都聖護院の修験者が中心になって護摩焚きをしています。昔は、村山の山伏(修験者)が富士山に籠もって修行を始めるとき、又は修行から戻ったときなどに護摩焚きをしていました。その中心になるのが法印といわれる修行を積んだ山伏で、村山には法印を中心に山伏十二人衆といわれる山伏集団がありました。村山の山伏は今川氏に仕え、今川氏からは村山は清浄域として保護され、集落の東西に見付を設け、村山三坊といわれる大鏡坊・辻之坊・池西坊が管理していました。登山期間中には道者といわれる登山者にも保護が与えられ、たとえ主人であっても、借財があっても、村山にいる間は責められることはなく、村山三坊に任せられていました。 山伏というのは、護摩を焚き山に籠もって得た普通の人の出来ないような、何か特別な力を持っていました。そういうところに目を付けたのが戦国武将今川氏で、村山の山伏は今川氏から北条氏の領国伊豆に対して透視山伏を命じられていました。透視山伏とは、透かし見るということで、いわゆる忍者的な役目で、中世には「らっぱ」「すっぱ」などといわれていました。しかも、村山の山伏には駿遠の山伏、というのは駿河村山と遠州秋葉山の山伏の支配を任せられていました。秋葉神社もそのころは修験の道場でした。 勘助当時の村山は、駿遠の山伏を支配して今川氏に仕え、「らっぱ」や「すっぱ」の働きをするような修験の集落であったといえます。

麓金山(ふもときんざん)

麓の竹川家には、今も昔からの門が残っています。竹川家は、裏山にある毛無金山を支配するお宅でした。天文年間(1532~1555)に、その金山支配を命じていたのが今川氏で、「すぐ北側は甲州との境になるので、この麓へ運ぶ荷物だけは、金山衆(かなやましゅう)の堪忍分(かんにんぶん)(食料や生活物資)として毎月六度滞りなく通すように、その他の荷物については通してはならない」というような文書が出されています。  天文年間、麓金山は今川氏の数少ない金山の一つであったと考えられます。今でも、竹川家の裏山には江戸時代の堀間の跡などが残されています。

先照寺(せんしょうじ)

先照寺

先照寺の山門を入ると、右手に六観音と六地蔵の石像が立っています。六地蔵には、「山本村吉野郷三郎」「享保二年」の銘が刻されています。六地蔵の石像は、享保2年(1717)に山本の吉野家が菩提寺に奉納したものだと知れます。 先照寺の御本尊は延命地蔵菩薩で、本尊の台座には「維時 天文十二歳癸卯秋八月吉日 日本駿州富士郡先照寺本尊 先妣法幢院殿玉林聖椿大姉後生善処 苦ヲ抜キ楽ヲ与ウル為ナリ 施主武田伊豆守源信友 戒名剱江義鉄欽志」と銘文があり、武田家の重臣穴山信友が先妣(せんぴ)(亡母)の後生善処を願い寄進した延命地蔵菩薩だと考えられます。当時の富士宮市は今川氏の勢力範囲内でしたが、そこには武田氏の勢力も寺院に御本尊を奉納するというように、この地域は今川氏・武田氏・北条氏の勢力が拮抗する所であったといえます。
住所:〒418-0044 富士宮市大中里11-1

綱敷天神像(つなしきてんじんぞう)

天神像

綱敷天神像は、明治維新以前は先照寺境内に祀られていました。綱敷天神とは円座の端の綱を持って坐した姿で、天神さん菅原道真が九州太宰府に流され浜辺に着いた時、地元の漁師が網や綱を敷いて道真の座る所を作ったという故事に由来する姿で、綱敷天神・網敷天神といわれています。 綱敷天神像は、明治維新の神仏分離にともない先照寺の境内からすぐ南の岡路八幡宮の境内に遷されました。これが勘助所縁の天神像だと伝承されています。綱敷天神像の台座裏に、吉野貞久(勘助の祖父)の子孫に当たる山本八郎右衛門幸光が江戸時代の享保19年(1734)に奉納したと記されています。  地域の伝承や先照寺の話によると、「勘助が武田に仕えるときに置いていった天神像である。」とか「勘助の息子(次男)が勘助を名乗り、武田氏が滅びた後北条氏に仕えて山中城(三島市)にいたが、山中城が秀吉勢に攻められ落城したとき、祖先の菩提寺先照寺に逃れて傷の手当てをし、傷が癒えると三河の国へ行った。その時、勘助が背負ってきた天神像を残していった。」というような話が残されています。愛知県新城市黒田の勘助の子孫だといわれる山本家には、「山中城から逃れ、先照寺で傷を癒して後、新城に落ち延びてきた。」という伝承があります。二つの伝説に符合する所があって、興味深いものがあります。

宗持院跡(そうじいんあと)

宋持院跡

宗持院跡といわれる所に、石の宮という地名の由来になっている大きな石の神様が祀られています。宗持院は、勘助の父山本貞幸の居館近くに位置し、勘助の父母と祖父貞久を祀ったお寺であったといわれています。 宗持院は明治維新には廃寺となり、祀られていた勘助の父母の像や祖父の牌子は代信寺に遷されたといわれています。

代信寺(だいしんじ)

代信寺

瀧戸山代信寺は、門の建っている所が富士市で、伽藍の建っている所は富士宮市だという、富士宮市と富士市の境に位置するお寺です。このお寺には、宗持院から遷されたという勘助の父母といわれる木像と、祖父貞久の牌子が祀られています。 宗持院は先照寺末の曹洞宗でしたが、代信寺は西山本門寺(芝川町西山)末の日蓮宗の寺院です。
住所:〒418-0023 富士宮市山本1236

勘助父母の木像(かんすけふぼのもくぞう)

父母の木像

代信寺に祀られている木像は勘助の父母で、向かって左が父貞幸で右が母安女(やすめ)だといわれています。座り方が左の像はあぐらをかいたように、右の像は正座したように見えるので、父母の像だといわれているようです。真正面から見ると右側の像がちょっと大きく見え、お母さんの方が大きかったのか、また衣紋にも違いがあるように見えるので、父母という対の木像ではないのではないかとも考えられ、勘助の父と祖父だとも伝えられています。銘文がないので、はっきりしたことは分かっていません。

安女の墓(やすめのはか)

安女の墓

吉野家の墓所に、勘助の母安女の墓だといわれる墓碑があります。元々は、吉野家の旧屋敷の一角にあった墓碑を吉野家の墓所に遷し祀ったものだといわれています。移動したのは昭和58年のことですが、古くから勘助の母安女の墓として祀られてきた墓碑だということです。

医王寺(いおうじ)

医王寺

富士市比奈にある医王寺は、吉野家から分家した比奈山本家の菩提寺です。山本家の墓地の中には、勘助の祖父貞久と勘助の墓碑が残されています。

勘助誕生地の碑(かんすけたんじょうちのひ)

勘助誕生の碑

吉野家の長屋門のすぐ左手に、「山本勘助誕生地」の碑が立っています。この碑は、大正13年に、昭和天皇御成婚を記念して大宮町山本の青年団が、県の補助を受けて建てたものです。富士市今泉の三将(今川義元・武田信玄・北条氏康)会盟の地といわれる善得寺跡には、「善徳寺址」の碑が今泉青年団によって大正13年に建てられました。 愛知県豊橋市賀茂にも、「山本晴幸生誕地 愛知県」と刻された山本勘助誕生地の碑が建てられています。この碑は大正4年に、大正天皇の御大典を記念して建てられた物です。 これらの碑が大正時代に建てられたということについては、偶然の一致というより、何か考えてみなくてはならないことがあるのではないでしょうか。郷土に目を向け、地域の先人に学び、地域に誇りを持って生きていく、大正郷土教育の成果の発露であったのではないかと思うのです。  私たちも、今回の勘助の放映を機に、勘助(地域の先人)のことを思うと同時に、地域の自然や歴史に学び富士表に住む者として誇りを持って生きていきたいものだと思います。
住所:〒418-0023 富士宮市山本165

渡井正二先生(元富士宮市社会教育指導員)

お問い合わせ

産業振興部 観光課 観光企画係

〒418-8601 静岡県富士宮市弓沢町150番地(市役所4階)
電話番号: 0544-22-1155
ファックス番号:0544-22-1385
メール:kanko@city.fujinomiya.lg.jp

表示 : モバイル | パソコン

ページの先頭へ戻る