ここからサイトの主なメニューです
ここからページの本文です

「強力 -富士登山案内人の軌跡─」展

2018年04月21日掲載

展示期間 平成30年4月21日(土)~9月9日(日)


 強力は登山者の荷物を運び道案内をする人のことで、富士山における強力の活動は江戸時代から確認することができます。それ以降、昭和時代に至るまで、富士登山をする多くの人々が強力を利用してきました。本展では、平成29年に岩見功氏より寄贈を受けた強力組合関係資料などをもとに、富士登山を支えてきた強力について紹介します。

1 富士登山と案内人

富士山信仰と登山

村山浅間神社・大日堂村山浅間神社・大日堂

 古代の富士山は、延暦の噴火(800年)、貞観の噴火(864年)など、噴火や溶岩の流出を繰り返していたため、人々は富士山を仰ぎ見て、遥拝していたと考えられています。
 しかし、噴火の落ち着いた12世紀ころから、一部の修験者により修行登山が行われるようになり、室町時代には、一般庶民も信仰にもとづく富士登山を行うようになりました。
16世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」には、大宮の浅間神社(現富士山本宮浅間大社)、村山の興法寺(現村山浅間神社・大日堂)を経て富士山頂を目指す人々の姿が描かれ、当時の登山の様子を知ることができます。

近世の富士登山と案内人

浅間山での祭礼(三重県度会郡南伊勢町切原)浅間山での祭礼(三重県度会郡南伊勢町切原)

 江戸時代に入ると、富士登山はより盛んになり、富士登山の拠点となった村山には、富士川以西の西国地域を中心に多くの道者(富士登山者)が集まりました。村山の興法寺は村山三坊(大鏡坊、池西坊、辻之坊)により管理され、道者は三坊の免許状を受けた先達に率いられて村山を訪れました。
 ここで人々は登山の準備をし、富士山頂へと向かいました。19世紀前半に記された『駿河国新風土記』には、村山から富士登山をする者は案内人となる「剛力」(強力)を雇っていたこと、「剛力」は村山周辺の神成、木伐山、粟倉の人々であったことが記されています。
 文政11年(1828)に儒学者・原徳斎が富士登山した際は、6月2日に大宮に宿泊し、翌日、宿の主人の案内により強力を雇い、村山を経由して富士山頂を目指しています。強力は富士山中における用便の方法を指示するなど(紙を地面に敷き、地上を汚さないようにする)、富士登山のルールを案内していた様子が分かります。

2 強力の活躍

強力とは

荷物を担いで登山する強力荷物を担いで登山する強力

 強力は富士登山者の荷物を持ち、案内をする人のことです。近世における富士登山の活発化に伴い、発展してきました。
強力には客強力と荷あげ強力があります。客強力は登山客の荷物を背負って案内をしながら富士山を登りました。一方、荷あげ強力は荷物持ち専門の強力で、山小屋への荷物の運搬などを行っていました。かつて、各山小屋にはお抱え強力がおり、九合目の山小屋には7-8名の強力がいたといいます。
 客強力で7-8貫(約25-30kg)、荷あげ強力では20貫(約75kg)もの荷物を担ぐ人もいたそうです。

強力組合

富士表口合(強)力連名簿富士表口合(強)力連名簿

 富士山表口強力案内組合(強力組合)は、客強力を専門としていました。昭和9年(1934)の「富士表口合(強)力連名簿」には100名を越える強力の名前が記され、多くの強力が活動していたことが分かります。強力組合は各登山口にあり、中でも吉田口(山梨県)の強力が最も多かったそうです。
 強力の依頼は顧客から組合事務所へ直接連絡が来るほか、旅館からの紹介などありました。依頼があると、くじ引きで決めた順番で強力達は富士山に行ったといいます。
 表富士周遊道路(富士山スカイライン)が全面開通して組合の解散した昭和45年(1970)まで、表口の強力たちは多くの登山客を案内し、富士山へと誘っていました。

登山案内の記録

強力と登山者(富士山世界遺産センター所蔵小林謙光富士山資料コレクション)強力と登山者(富士山世界遺産センター所蔵小林謙光富士山資料コレクション)

 強力の利用者は個人客から、学校・企業などの団体にいたるまで様々でした。団体客の場合は100名を超える登山客を案内することもあり、学校などの場合は毎年利用する常連客も多くいたようです。
 昭和38年(1963)の強力組合の記録によると、7月16日から8月9日の間に40組の個人・団体の案内をしていたことが分かります。個人・団体にそれぞれの人数に応じて、1-5名程度の強力がつきました。この年に富士山に登った強力の数は12名で、それぞれの強力が1-7回富士山に登っていたようです。

御田植祭と強力

代掻きをするタシロヤク代掻きをするタシロヤク

御田植祭は五穀豊穣を祈る富士山本宮浅間大社の祭礼で、毎年7月7日(明治時代より前は旧暦の6月28日)に行われます。
この祭礼において、強力はタシロヤクとして奉仕をしていました。タシロヤクは、神田宮での祭礼の際、早苗を田へ投げ入れる前に田の中に入って代掻きを行います。毎年5~6人の強力で参加していたそうです。
 また、御田植祭が終わると、強力組合の事務所開きが行われ、強力は旅館(中本、中支、河野屋、角濱、橋本館、天神楼など)へ挨拶回りを行ったといいます。7月6日以前は強力組合として営業しておらず、強力の依頼があった場合は個人で対応していたといいます。

3 表口最後の強力

表口最後の強力

 岩見功さん(昭和元年・1926年生)は昭和20年ころから強力組合が解散した昭和45年まで強力として活動し、最後の強力組合長も勤めました。
 岩見さんは阿幸地の出身で、戦後、父親の仕事を継いで臼職人になり、やがて強力としての活動をはじめました。強力をはじめる前は1、2回しか富士山に登ったことがなく、当初は強力組合長と一緒に登山していたといいます。
岩見さんが強力をはじめた時、富士宮にはまだ20人程の強力が活動しており、阿幸地出身の人が多くいたそうです。しかし、強力の利用者の減少とともに強力の数も減少し、組合が解散した時に活動していた強力は2名になっていました。

強力回想

強力の道具(背負子と息杖)強力の道具(背負子と息杖)

 岩見さんが強力を始めた時は、富士山の二合目までバスが通っており、一合目や一合五勺に行くことはあまりなかったといいます。強力が客の荷物を持つのは最後の苦しい箇所だけで、客の体力にあわせて少しずつ休憩をとりながら登りました。
岩見さんの案内した登山客は、頂上に行った後、ほとんどは河口や御殿場へ下りました。河口からはバス、御殿場からは電車で富士宮へと帰り、交通費は別途でもらっていました。
また、富士山という厳しい環境の中で登山客の荷物を背負い、案内をする強力には様々な出来事がありました。岩見さんの体験談として、以下のようなものがあります。

(1)大阪の高校の生徒を案内した時、途中で体調不良の生徒が出た。その生徒を先頭に歩かせて八合目(宿泊場所)まで行き、診察を受けたところ、盲腸だった。強力が2人ついていたので、翌日岩見さんが患者とともに七合目まで降り、そこから砂上スキーで二合五勺まで降り、バスで病院へ向かった。

(2)天気の悪い時、5人の客を連れて富士宮口から頂上へ行き、河口へ下りた。頂上は風が強く、岩見さんが5人分の荷物を背負った。その時風のため、後ろへひっくり返ってしまったが、荷物があったので無事だった。風が弱くなるのを待って移動した。

登山期間外の活動

 強力は登山期間(7月-8月)の活動だけでは生計を立てることができないため、登山期間外は農業などに従事していました。岩見さんは農業の他にも、臼造りを生業としていました。これは岩見さんの父親が臼造りを生業としていたためで、阿幸地には他にも臼造りの職人がいたといいます。
 臼造りには木の伐採を始めとして様々な工程があり、それに合わせて、木を切る道具、臼の外側・内側を削る道具など多くの道具がありました。
 岩見さんは最盛期には1日に1個の臼を作ることができたそうです。しかし、父親が亡くなり、木の伐採ができなくなってしまったことや、餅つきの機械ができた影響により、生業としての臼造りはやめてしまったそうです。

富士登山の変化と現在

表富士周遊道路(富士山スカイライン)工事の様子表富士周遊道路(富士山スカイライン)工事の様子

 近代以降、富士登山は大きな変貌を遂げました。神仏分離・廃仏壊釈運動による変化の他、交通の発展は特にめざましく、大正2年(1913)にはバス・タクシーが富士山一合目下のカケスバタまで運行するようになり、以降、順次延長されていきます。これらの影響により、富士登山者の増加と登山の観光化が進み、近世以前に見られた信仰の意味合いは次第に薄くなっていきました。
 昭和45年には現在の五合目(標高2400m)まで自動車で行けるようになりました。自動車道の延長は登山者の動向や山小屋・強力の営業にも大きな影響を及ぼし、強力組合はこの年に解散しました。現在、富士山の各登山口で強力の活動はなく、山小屋への荷物運搬はブルドーザーが担っています。

お問い合わせ

教育委員会事務局 教育部 文化課 埋蔵文化財センター

〒419-0315 静岡県富士宮市長貫747番地の1

電話番号: 0544-65-5151

ファックス番号: 0544-65-2933

メール:maibun_center@city.fujinomiya.lg.jp

表示 : モバイル | パソコン

ページの先頭へ戻る