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「江戸時代の上野」展

2014年11月22日掲載

旧上野村役場文書を通して、江戸時代の上野地域の様子を紹介します。


平成26年、富士宮市教育委員会は『旧上野村役場文書』を刊行しました。これは、旧上野村役場に伝来した上条村・下条村・精進川村・馬見塚村の古文書資料を紹介するものです。これら古文書資料からは、地域の歴史や人々の暮らしが伝わってきます。

旧上野村役場 旧上野村役場

旧上野村位置図 旧上野村位置図

1 上野村

上野の村々のすがた

近世、富士地域は旗本領(旗本采地・知行所)と幕府直轄地(天領・御料)、寺社領が混在しており、相給(1村を複数の領主で治める)や領主の交替も多く、複雑な支配形態にあった。
上野では、下条村は近世を通じて旗本松平氏の支配だったと考えられるが、残る3村は途中で領主が交替した。上条村は甲府藩から代官所・旗本渡辺氏・松平氏の支配となり、幕末期には渡辺氏・松平氏・永田氏が治めていた。馬見塚村は天領から寛政年間(1789~1801)には旗本岡部氏知行へ、精進川村は天領から天保一四年(1843)に旗本本郷氏・沼津藩主水野出羽守支配に変わった。また、この他に村内に寺領がある村もあった。

幕末期の各村の石高・領主(『静岡県史』資料編9「天保郷帳」・『富士郡誌』より作成)
村名 石高 領主
上条村 688.285石 松平新七郎・渡辺伴三郎・ 永田勝左衛門・大石寺
下条村 687.399石 松平采女
精進川村 581.746石 本郷石見守・水野出羽守
馬見塚村 138.169石 岡部龍之介

現在の上野のようす

上条のサクラ 上条のサクラ  県指定天然記念物のサクラ。見ごろは例年4月上旬。

妙蓮寺(下条) 妙蓮寺(下条)  表門や客殿など5棟が市文化財に指定されている。

馬見塚の水田 馬見塚の水田  用水により畑作地に田んぼが開かれた。

精進川浅間神社 精進川浅間神社  現在は、八幡神社・熊野神社を合祀している。

2 村と用水

用水と上野

上野は芝川と潤井川に挟まれた台地上にあるため水の便が悪く、農作業や生活のための水は用水路で引いてくる必要があった。潤井川は上野周辺ではまだ水量が少ないため、大堰用水(大堰川)をはじめとする上野の用水は全て水量豊富な芝川から水を取っている。
「大堰用水絵図」からは、大堰用水から数多くの用水路が枝分かれし、広く村内を潤している様子が分かる。人々は水のない土地に用水路を開いて田んぼを広げ、時間をかけて豊かな土地に変えていった。

大堰用水取水口 大堰用水取水口

大堰用水井口絵図 大堰用水井口絵図(安政4年:1867)

大堰用水絵図 大堰用水絵図(年不詳)

大堰用水末流と田んぼ 大堰用水末流と田んぼ

新堀用水

『上野村誌』によると、新堀用水の開削には、文政年間(1818~1830)に上柚野村名主平蔵・下条村百姓伴七が開いたという説と、天保の飢饉を受けて精進川村名主兵左衛門が開いたという説の2説があるという。旧上野村役場文書からは、平蔵・伴七が精進川村字原地の畑田成(畑の水田化)を目的に計画し、文政二年(1819)に工事を開始したと考えられる。また、後には精進川村も計画に加わり、天保年間(1830~1844)にも工事が続けられていた。
新堀用水は、現在、雌橋下で芝川から取水し、原地や西之原(下条)の田んぼを潤している。

新堀用水取水口 新堀用水取水口(明治33年に現在の場所に取水口を移したという)

新堀用水と原地の水田 新堀用水と原地の水田

3 助郷役

助郷の村々

江戸時代、街道の宿場には、荷物や人を輸送するための人足・馬が用意されていた。宿場に配備された分では足りない際には、助郷に指定された村々も人馬を提供した。宿場から遠い村では、実際に人馬を出す代わりに、必要な人馬を雇うための金銭を支払った。
しかし、人馬の提供は労働力が奪われることであり、金銭の支払いも出費がかさみ、村々を苦しめた。そのため、各地でしばしば助郷役の軽減・免除が訴えられた。東海道蒲原宿の加助郷に指定されていた上野の村々も、繰り返し負担の免除・軽減を訴えた。

東海道五十三次之内藤枝 東海道五十三次之内藤枝(人馬継立の様子)

蒲原宿(現在の様子) 蒲原宿(現在の様子)

精進川村の助郷役関係年表(G1~G3・G5~G10より作成)
年(西暦) 内容
宝暦10年(1760) 公家の通行に際し、精進川村・上条村等39ヶ村、蒲原宿加助郷に指定される。
安永2年(1773) 精進川村等17ヶ村、村の疲弊を理由に助郷役免除を求める。
天明4年(1784) 精進川村、助郷役免除を願う。
天明8年(1788) 精進川村、助郷役免除を願う。負担額の減額(勤高=村高8割)が許される。
天保7年(1836) 精進川村等16ヶ村に吉原宿代伝馬役が課される。(弘化3年:1846まで)
天保14年(1843) 精進川村等の蒲原宿加助郷20ヶ村、蒲原宿宿役人の不正を提訴する。(閏9月)
蒲原宿加助郷20ヶ村と蒲原宿宿役人、内済(和解)する。(10月)
蒲原宿加助郷20ヶ村、再び蒲原宿宿役人の不正を訴える。(10月)
弘化4年(1847) 精進川村、蒲原宿増助郷に指名される。
弘化5年(1848) 精進川村、蒲原宿増助郷の指定回避を願う。

※助郷役の種類

  • 定助郷 ・・・ 常時人馬を出す。宿場に近い村々。
  • 加助郷 ・・・ 特別な通行の際、臨時に人馬を出す。宿場から遠い村々。
  • 増助郷 ・・・ 人馬の不足を補うために新たに増設された助郷。定助郷と同じ負担。
  • 代助郷(代伝馬) ・・・ ある村が助郷役を免除された際、代わりに助郷役を勤める村。

天保14年の助郷役争論

天保14年閏9月、蒲原宿加助郷20ヶ村は、助郷役の負担について蒲原宿宿役人が不正をしているとして韮山代官所に提訴した。
争論は岩本村・原宿が仲裁に立ち入り、10月に内済(和解)した。

加助郷の主張

費用負担割合は、先例では村高の割合
本来は定助郷の約3割の負担であるはずが、現況は定助郷の約2倍(定助郷12000石に人足 2000人分、加助郷3400石に人足1000人分)

加助郷が負担する必要のない経費まで計上し、請求している。
例)通行前後14、5日間の人足(本来は当日分のみ)、蒲原宿の都合による江戸出張費用、継立不手際の謝罪費用・などの諸雑費

蒲原宿宿役人の反論

費用負担割合は先例通り「定助郷2に対して加助郷1」(定助郷2000人分・加助郷1000人分)
計算の根拠は助郷役指定当初の村高(定助郷12000石・加助郷6000石)

内済内容

蒲原宿は、経費節減に努め、今後も正しく計算する。
加助郷は、そもそも人馬の手配を宿役人に押し付けているので、これ以上言いがかりをつけて迷惑をかけない。
江戸出張費用については、今後は計上しない。

4 村と危機

天保年間の富士地域

天保年間(1830~1844)は全国的に天候不順・不作が続き、特に天保4~7年(1833~1836)には「天保の飢饉(ききん)」が発生した。また、天保七年には「下田の打ちこわし」や「郡内騒動」が起きるなど世情不安が深刻化した。
この地域も食糧不足や物価高騰などが起き、天保四年には精進川村が貯穀(ちょこく)(非常用備蓄食糧)の放出と金銭の借用を願い出、天保7年には富士郡43ヶ村が協議して穀類の津留(輸出禁止)を行った。村の自力と領主の救済で危機を凌ごうとするものの状況は深刻化し、とうとう天保8年(1839)3月、困窮した村人が徒党を組んで大宮町に押し寄せる事件が起きた。

天保年間の富士地域の状況
(旧上野村役場文書・旧北山村文書・「公社日記」(『浅間文書纂』所収)・「山方騒動諸用留帳」(個人蔵)より作成)
年(西暦) 内容
天明7年(1787) 米価高騰・食糧不足のため、富士郡各村に一揆を呼びかける回状が回る。(一揆は未遂)
天保2年((1831) 疫病が流行し、北山村で病死人多数発生する。(5~10月)
北山村、米麦不作のため、天保2年分の年貢減免を願う。
天保3年(1832) 北山村、天保2年分の年貢減免を願う。
天保4年(1833) 北山村に対し、退転百姓多数のため他領・他郷への養子が禁止される。
北山村、村方存続のため25両の郷借をする。
精進川村等幕府領各村、貯穀放出・金銭借用を願い、許される。
天保6年((1835) 精進川村等、凶作のため貯穀返済の猶予を願う。
天保7年((1836) 富士郡中組合43ヶ村、穀類の津留(輸出禁止)を決める。上井出村村人、「不如法之儀」(安売り強要カ)に及び、関係者は韮山代官所の取り調べを受ける。(7月)
下田の打ちこわし(7月)
郡内騒動(8月)
北山村、村方存続のため33両の郷借をする。風紀取締のため村掟を定める。
天保8年(1837) 浅間神社、飢饉深刻化を受けて祈祷を行う。(2月)
大宮騒動(3月)
天保9年(1838) 韮山代官所、安左衛門らの「身元不埒之段御糺」をする

大宮騒動

天保8年(1837)3月1日深夜、北山村・山宮村などの困窮した村人が徒党を組んで大宮町に押し寄せる事件が起きた。
暮六ツ(午後6時頃)、北山本門寺五重塔に集合した村人たちは、松明を手に進み出し、途中参加者を増やしながら九ツ(深夜12時頃)大宮町付近に至った。そして浅間神社社人・大宮町町役人らに窮状と救済を訴え、粥の炊き出しを受けた後、夜明けに引き上げた。
騒動には年齢・性別・居住村も様々な多数の参加者があった。地域の広い範囲で状況が深刻化し、騒動に至ったものと考えられる。また、騒動自体は素早く解決したものの、支配形態が複雑な地域で発生した大宮騒動は、領主の枠を超えた対策の必要性をあらためて認識させたと考えられる。

大宮騒動の流れ (「大宮騒動差出伺書」(江川家文庫「公事方御用留」天保8年)より作成)
年月日 内容
天保7年12月27日 大宮町の八兵衛・九兵衛、近隣での一揆のうわさについて会話する。八兵衛、一揆勢が大宮町に来た場合は自分が仲裁しようと発言する。
天保8年2月28日 九兵衛、北山村の多十郎を訪れ、一揆を提案する。多十郎、山宮村の勇吉に相談し、一揆の決行を決める。
天保8年3月1日 午後6時頃、多十郎ら、北山本門寺五重塔に集合し、一揆を開始する。途中参加者を(時には強制的に)増やしながら大宮町へと下る。
夜9時頃、八兵衛、一揆の発生を知り、町役人に連絡し、現場に向かう。
深夜12時頃、一揆勢、大宮町町境の「山之神之森」付近に至る。多十郎、富知神社付近で浅間神社社人らに対峙し、窮状を訴える。社人ら、立宿の鈴木藤右衛門方で粥の炊き出し・筵の配布を行い、多十郎から参加者名簿を提出させる。
天保8年3月2日 夜明け、一揆勢が解散する。
大宮町役人惣代、韮山代官所に出役の派遣を願う。韮山代官所手代、首謀者逮捕を命じ、多十郎・勇吉らが捕縛される。
天保8年3月3日 浅間神社社人、韮山代官所手代に注進書を提出する。
天保8年3月5日 北山村役人、多十郎の取調べを行う。
天保8年3月6日 八兵衛、腰縄・大宮町預かりとなり、取調べを受ける。
天保8年3月19日 九兵衛、拘留中(11日)に持病を発症し、死亡する。
天保8年3月29日 代官・関係各村領主連名で、関係者の供述書・取調書を作成する。
天保8年4月 代官、関係者が御料・私領に亘るため奉行所の吟味を願う。
天保8年8月までの間 首謀者(多十郎・勇吉)の処分が決定し、落着する。
大宮騒動の舞台

騒動関係図大宮騒動関係図 (「富士宮市全図」より作成)

琴平神社 琴平神社(朝日町) (一揆勢が集まった山の神の森付近)

立宿 立宿 (立宿の鈴木藤右衛門方で粥の炊き出しが行われた)

大宮騒動参加者一覧 (江川家文書「公事方御用留」天保八年・案主富士氏記録「公社日記」より作成)
在所・人数 名前(年齢)
北山村・30人(41人) 多十郎(27)、十助(38)、与市右衛門(40)、十右衛門(38)、万蔵(25)、治郎右衛門(57)、伊兵衛(28)、与五右衛門(31)、藤助(24)、勇蔵(27)、浅右衛門(47)、十蔵(37)、喜左衛門(29)、庄五郎(29)、安左衛門(63)、定次郎(23)、作蔵(19)、伊勢松(30)、惣助(35)、忠兵衛(47)、弥吉(33)、忠右衛門(41)、銀蔵(22)、直蔵(49)、灸蔵(43)、千蔵(54)、伊兵衛(55)、七郎右衛門(32)、喜兵衛(36)、武八(46)
*清吉、惣衛、喜右衛門、忠兵衛、多喜蔵、常右衛門、新蔵、平蔵、久右衛門、忠兵衛、おわき、(九兵衛)
山宮村 6人(19人) 勇吉(34)、市左衛門(44)、与三右衛門(32)、平右衛門(24)、吉右衛門(30)、与惣右衛門(64)
*留蔵、多右衛門、勝五郎、万右衛門、おのよ、喜右衛門、繁右衛門、与右衛門、伝右衛門、藤兵衛、周助、伝右衛門、巳之助
宮原村 5人(8人) 文吉(37)、栄左衛門(22)、豊吉(29)、惣吉(24)、兵左衛門(30) *兼吉、勝蔵、仙二郎
大宮町・1人 八兵衛(70)
無宿・1人 (九兵衛(56))

註1)資料に記載のあった人名を載せた。実際にはこの他にも参加者があったと考えられる。
 2)*印以降の人名は、浅間神社作成炊出受給者名簿のうち韮山代官所調書に記載のない者。なお、*を含めた人数は()書きで表した。
 3)「九兵衛」は、「公社日記」に北山村として載るが、駿州無宿九兵衛と考えられるため括弧書きとした。

展示会の詳細

名称:「江戸時代の上野」展
期間 : 平成26年11月22日~平成27年2月28日
場所 : 富士宮市立郷土資料館(富士宮市宮町14-2 市民文化会館1階)

お問い合わせ

教育委員会事務局 教育部 文化課 埋蔵文化財センター

〒419-0315 静岡県富士宮市長貫747番地の1

電話番号: 0544-65-5151

ファクス: 0544-65-2933

メール : maibun_center@city.fujinomiya.lg.jp

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