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4 富士山大宮・村山口登山道跡

2011年05月31日掲載


1 村山口登山道の成立
平安時代の末、久安5年(1149)に富士山に登ること数百度という末代上人が富士山頂に大日寺を建てたといわれている。以来富士山は仏教修行の山として、修験者の登る山となり、後に麓の村山に興法寺という寺が成立したといわれる。室町時代には、村山で修行した行者に連れられた一般の登山者が富士山に登るようになってきた。この当時の登山は、行者に伴われた仏教修行の一環で、登山者は修行者という意味で「道者」と呼ばれていた。昔の登山道を今でも道者道というのは、その名残である。

2 東海道を西からやってきた道者 
東海道を西からやってきた道者は、富士川を渡り岩本より高原・黒田を経て大宮へ入り、浅間神社に参詣して阿幸地・舞々木・賽の河原・粟倉・山辻を経て村山浅間神社へ向かった。この道筋には、富士川を渡ってまもなく、東海道との別れ道の現富士市四丁河原に「富士山道」の道しるべ(現在は水神の森に移動)があり、大宮の浅間神社を過ぎて舞々木の登山道と山宮御神幸道の別れ道に「右富士山道」の道しるべがある。賽の河原には、「富士登山満行供養塔」や「石経供養塔」・六地蔵があり、山宮浅間神社から村山へやってくる道と登山道の出合う山辻に「右冨士山」の道しるべ(現在は村山浅間神社に移動)があった。
岩本から山裾を迂回して滝戸へ出て潤井川と凡夫川を渡り、杉田を経て石原・横沢を通って村山へ至る近道もあった。この道を通った登山者のためのものと思われる、「ぼんぶ」と刻された道しるべが2基残されている。これに対して大宮の浅間神社では、浅間神社に寄るのが登山の本道であるので、凡夫川を渡って村山へ向かい浅間神社によらない登山者を取り締まってほしいと訴え出ている。このことからすると、凡夫川を渡って近道をする登山者も多かったのではないかと推測される。

3 村山道と道しるべ 
東海道吉原宿からの登山道は、宿の西口より伝法・厚原・久沢・若宮・下小泉・欠畑を経て大宮へ出、浅間神社に参詣して村山へ上るのが本道だとされていた。しかし、江戸時代末期に作られた村山口の富士登山案内図には、吉原から直接村山へ向かう道が見られる。それによると、吉原から伝法・三ツ倉・穴ヶ原・鳥追窪を経て、富士宮市の石原・横沢を通って村山へ達する道である。この、吉原から村山までの登山道を村山道といい、道筋には現在も「むらやま道」「村山道」と刻された道しるべが立っている。道しるべは、富士市大渕の三ツ倉・穴ヶ原・鳥追窪に計5基あり、富士宮市内に入って横沢に2基が残されている。

4 村山浅間神社から頂上へ
村山浅間神社からは、神社西側の登山口六道坂を上って、途中の発心門や札打場を経て、現天照教社(明治初年創建)の所を通り、現五合目の東側を四合目(現新六合目)に上り、そこから上はほぼ現登山道と同一であった。村山浅間神社西側の登山口は今も六道坂といわれ、発新門(発心門)・札打場などの地名や札打場の大ケヤキも残されている。また、登山道の途中にあった中宮八幡堂や一の木戸などの建物跡も残されている。しかし、明治39年大宮口新道完成以来90年余が過ぎ、その間の降雨により道が流され、木材搬出用馬力道跡が重複し、村山口登山道跡の特定は難しい状態である。

5 村山口登山道の衰退
明治時代になると、廃仏毀釈運動によって浅間神社や富士山中から仏教関係の物が取りさられ山頂の大日堂が浅間神社奥宮となり、富士修験の中心地村山の権威や発言権が弱められた。明治39年には登山新道(大宮口登山道)が開かれ、村山は登山道から外れてしまい、以来村山口登山道ないしは村山も衰微してしまった。今も村山浅間神社の大日堂には市指定文化財の大日如来坐像・役行者椅像・不動尊像などがあり、周辺に水垢離場や護摩壇などが残されているし、県指定天然記念物の大スギやイチョウが村山浅間神社の歴史を物語っている。

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