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代官屋敷遺跡第2次発掘調査について

2011年05月31日掲載


富士宮市立郷土資料館通信№4(2010.12)
平成21年度 埋蔵文化財調査概要

1.発掘調査について

富士宮市内には、地下に、埋蔵文化財(土器・陶磁器・石器・金属器などの「遺物」や、古墳・住居跡などの「遺構」のこと)が含まれていると考えられる範囲が240箇所程度あります。この範囲を「遺跡」と呼びますが、発掘調査は、遺跡の範囲内で開発によって土が削られ埋蔵文化財が失われることが予想される場合や、学術的に調査する必要があると判断された場合に、埋蔵文化財がどのような状態で、何が埋まっているのかを記録として残し、後世に伝えるために実施されます。
富士宮市では、おおよそ年間5件程度の発掘調査に加え、年間12件程度の発掘調査を実施するかどうかを判断するための事前の確認調査を行っています。昨年度(平成21年度)実施した発掘調査の主なものとして、これからご紹介する代官屋敷遺跡(だいかんやしきいせき:市遺跡№11)と、大石寺御影堂基壇遺跡(たいせきじみえいどうきだんいせき:新規登録)が挙げられます。代官屋敷遺跡は、宅地分譲地造成工事予定地に対し、事前の発掘調査として実施されました。大石寺御影堂基壇遺跡は、県指定文化財大石寺御影堂の大改修工事に伴い実施されました。

2.代官屋敷遺跡の位置

代官屋敷遺跡は、富士山の西南麓、富士山の溶岩流でつくられた小高い台地上の平坦面、標高約150m付近にあります(第1図)。面積は約106,000㎡で、うち昭和53~56年(1978~81)に西富士道路建設工事のため、面積約6,100㎡の範囲で発掘調査が実施されています(第1次調査)。第1次調査では、縄文時代早期~中期初頭※1(約9,000~5,000年前)の土器と石器と共に、住居跡(縄文時代前期後半~中期初頭)・土坑(縄文時代前期後葉)・集石※2(縄文時代早期)が確認されました。

※1 考古学では、出土した土器や石器の文様・形・制作技法などを調べ、その変化を元に時代を区切っています。縄文時代は古い順に、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に大きく分けられます。
※2 住居跡は、竪穴住居といい、地面を掘って床を作り床面に柱をたてて屋根を支える構造のものです。土坑は、地面に穴を掘った跡で、炉として使った場合は焼土が含まれます。集石は、当時の人が手頃な石を集めておいた跡で、炭などと一緒に確認されることがあり、蒸し焼きなどを行った場所と考えられるものがありますが、何も出土せず、使われ方が不明とされるものもあります。

図1第1図 代官屋敷遺跡の位置と調査地点

3.平成21年度調査(第2次調査)の概要

第2次調査地点は、第1次調査地点から南に約200m下った場所です。面積約900㎡を調査し、縄文時代早期~前期の土器と石器と共に、土坑・集石が確認されました。土坑や集石は、調査区内に確認された小さな谷を囲むように点在しており(第2図・写真1)、土器や石器も土坑や集石を覆うように出土しています。
土坑や集石の時期は、一緒に出土した土器が非常に少ないために正確にはわかりませんが、土器の分布から、多くが縄文時代早期後半のものであるようです。また、炉穴と考えられる焼土が含まれる土坑も確認され、当時の人々が煮炊きしたことがわかります。出土した土器を見ると、第1次調査区が利用される時期と第2次調査区が利用される時期が交互に変化しているようで、人々に利用された時期が異なるようでした。
使われていた土器は、ものを煮炊きする「ナベ」として使われた深鉢という形のもので占められていました。文様を見ると、早期前半には、関東地方を中心にみられる土器(撚糸文系土器)、中部・近畿地方を中心にみられる土器(押型文系土器)の両方があり、早期後半には、愛鷹山麓を中心にみられる土器(清水柳E類土器・写真2)や、東海地方を中心にみられる土器(東海条痕文系土器)が出土し、時代によって様々な地域から影響を受けた生活をしていたことがわかります。
使われていた石器には、狩猟のための道具(石鏃※3)や、食べ物や道具を加工する道具(石皿・磨石・敲石・打製石斧・石匙・掻器・削器※4)などがあります(写真3)。出土点数の割合は、狩猟具である石鏃が40%を占め、最も高い割合となっています。しかし、植物質の食べ物を細かく砕いたり磨りつぶしたりするために使われた磨石や敲石などの割合も36%と高く、動物質の食べ物をやや多く利用してはいますが、植物質の食べ物も同じような割合で利用していたと考えられます。

※3 石で作られた矢じり。石材は黒曜石が最も多く利用されます。
※4 石皿・磨石・敲石は、ものをこねたり磨りつぶしたりするための調理具で、現在でも使われる擂鉢と擂りこぎ棒の役割に近いものです。打製石斧は、土を掘るための土掘具で、現代のスコップのようなものです。石匙(せきひ)は、穴を開けたり切ったりするなど、万能のナイフのようなもので、掻器(そうき)は、皮なめしに使い、削器(さっき)はものを切ったり削ったりする工具として使われたと考えられています。

図2第2図 遺構分布図(第2次調査)

写真1写真1 遺構分布のようす(調査区東南方向より撮影)

写真2写真2 出土土器(清水柳E類土器:早期後半)

出土石器写真3 出土石器(左上:石鏃5点,左下:石匙(左),掻器(右),右中:打製石斧,右:磨石)

4.富士山南西麓の縄文時代早期

富士宮市域は、富士山の噴火活動によって流れ出た溶岩流によって地形の多くが形作られています。代官屋敷遺跡の主な時代である縄文時代早期の遺跡は、標高100~200m付近の大岩・小泉地区と、潤井川を挟んだ対岸の黒田地区、星山丘陵の富士川沿いの沼久保地区、羽鮒丘陵西麓の大鹿窪・西山地区に分布します(第3図)。富士宮市では、縄文時代中期に最も遺跡数が増え、分布域も標高900m以上の根原地区にまで広がりますが、これは、縄文時代中期に地球規模の温暖化がピークを迎え、植物の種類が豊かになったことにより、より標高の高い場所でも暮らしやすくなったことが理由に挙げられます。この気候適期と呼ばれる時期より以前の縄文時代早期は、氷河期以来の寒冷だった気候が徐々に年平均気温が高くなり、地球規模の気候の変化とそれに伴う地形の変化が進んだ時期にあたるためか、やや標高が低く、同じような場所にまとまって分布する傾向があります。
また、縄文時代早期後半という時期になると、それまで同様の文様を土器につけていた文化圏が狭くなり、地域色が生まれます。これは全国的な傾向のようです。そのような時期、富士宮市域においては、東の愛鷹山麓や伊豆半島と同様の文化圏にあった生活をしていた時期(清水柳E類土器期)の後、関東地方の影響を受け(鵜ヶ島台式土器期)、またその後は西の東海地方の影響を受けた時期(東海条痕文系土器期)になるなど、変遷が見られます。このような文化圏の変化は何によるものなのか、また当時の人々の生活にどのような影響があったのか、さらなる調査が必要です。

図3第3図 富士山南西麓の縄文時代早期の遺跡分布図

(嘱託学芸員 佐野恵里)

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教育委員会事務局 教育部 文化課 埋蔵文化財センター

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