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信長公記に記された「かみ井手の丸山」

2011年05月31日掲載

1.はじめに

信長公記(太田牛一1527~1613)によれば、織田信長は天正10年(1582)3月甲州征伐を終えて、「富士の根かたを御見物」のため、右左口から中道往還を上った。  4月12日、未明に本栖を発ち、朝霧高原で馬駆けをして、人穴を見学する。休憩後、源頼朝の「富士の巻狩(1193)」の旧跡を尋ね、大宮の御座所に宿泊する。徳川家康が新造した御座所には金銀が鏤められ、行き届いた接待は信長を満足させ、秘蔵の太刀や脇差などを家康に進呈している。翌13日に大宮を後にして、富士の見物を終えるが、それから一ヶ月余の6月2日、本能寺の変によって憤死する。信長の最初で最後の富士遊覧であった。

2.かみ井手の丸山

信長が詳しく尋ねたとされる、富士の巻狩の旧跡について、信長公記に「昔、頼朝かりくらの屋形立てられしかみ井手の丸山あり。西の山に白糸の滝名所あり。」とある。かりくらの屋形は頼朝が狩をした時の宿所で、富士宮市狩宿の井出館跡を指し、かみ井手は同市上井出。白糸の滝は言わずと知れた、あの名勝及び天然記念物の「白糸ノ滝」である。
さて、問題はかみ井手の丸山で、狩宿・上井出地区にその呼称を見聞きすることは無く、地元の古老に頼っても存在は知れないのである。

3.上井出の二つの山

上井出地区は、富士山の大沢扇状地の緩やかな斜面を占有するが、そのなかに2基の独立丘が存在する。峰山と天神山で、いずれも富士を望む風光明媚な地である(図1)。
峰山は、上井出集落の西側で白糸の滝から下る芝川の左岸に沿った、巾250m、長さ1000m強で連なる「舌」状の細長い丘陵で、集落との比高を15m程で保っていて、「峰」山の呼称に相応しい景観を呈している。この丘陵の南突端の根方で芝川と大沢川が最も接近して作る自然の要害地に、頼朝の仮宿(狩宿)が築かれたと伝わる。
天神山は、上井出集落の北側に広がる「間遠ヶ原」の南端の集落境に忽然と姿を現した、南北400m×東西250m、比高25m(標高545m)の半球状の独立丘である。現況は、杉桧の植林と公園整備のため桜が植樹され、独立感が見て取れないが(写真1)、明治32年発行の地図には円形の等高線の集合が描かれており、かつての上井出の集落から北を仰ぐと円球の「丸」い山として望めたものと想像される。

図1図1 上井出地形図(明治23年発行)2万分の1

写真1

写真1

写真1 天神山遠景(左:白糸の滝付近より、右:上井出インターチェンジ付近より)

4.天神山と天神社

集落の北側、すなわち後背に位置した山塊に、「村の氏神」を鎮座させる例は一般にも多く、上井出集落ではそこに天神社を祀っている。富士郡神社銘鑑(昭和5年)によれば、菅原道真を祭神として、由緒は創建年月不詳、明治4年に琴平神社と山神社を合祀したと書かれている。年代を探るには、奉納された板曼荼羅の明治31年が最も遡った資料であるが、明治4年に合祀を許可されるような立場にあり、また、同じ集落の山神社に安永9年(1780)の棟札が確認されることなどからすると、江戸時代の終わりには確実に存在していたものと考えられよう。とすれば、後背の山塊を神社に合わせて天神山と呼称することも自然の流れであったろう。

5.天神社と高土俵

この天神社の境内には富士山を模した高土俵がある。現在は土俵の高さを3.776mに成形しているが、以前はもっと高かったと古老は伝える(写真2)。また、この奉納相撲は頼朝が富士の巻狩の際に武将に相撲を取らせたことに由来するとされ、実際に「河津掛け」に名を残す河津三郎祐泰など、鎌倉武士の武術の鍛錬に相撲が用いられており、軍事訓練でもあった巻狩と合わせて相撲が催されたことは予想される。
天神社の高土俵の由来や起源は不明であるが、奉納相撲が古来より農業生産に伴う神事として執り行われたなかに、地域柄そこに頼朝の富士の巻狩の言い伝えが被されることは容易なことであり、天神社や天神山が富士の巻狩の旧跡のなかに存在してきた事実としても捉えられよう。

写真2写真2 天神山と高土俵

6.天神山と猪土手

富士の巻狩遺構と伝わる猪土手がある(渡井 1991)。猪土手は幅2m、高さ0.5mほどの崩れた台形状で残存しているが、本来は片側に溝が掘られて、その掘削土を土塁状に盛ることから、構築時にはその2倍ほどの規模で存在したものと考えられる。白糸の佐折(標高540m)からまかいの牧場北側(620m)を通り、上井出大沢(560m)を渡って北山赤焼(550m)まで半円上に総延長9.5kmで築かれており(図2)、この猪土手の描く半径およそ2kmの弧状の中心に天神山が位置している。天神山頂上(標高545m)からは目線を遮るものはなく、パノラマ的な景観は、富士の巻狩の浮世絵(一英芳幾画・写真3)を彷彿させる。
兎に角も、富士の巻狩の舞台の中心に位置する天神山周辺にはそれに関わる伝承や地名が数多く残る。ここでは猪土手をキーワードにして拾うと、その内側には、「駒立の丘」「的ヶ原」「弓塚」「穴籠」「猪落し」、天神山の北側に「大将的場」、「間遠(的の転訛)ヶ原」など、狩りに係る呼称が集中して、その外側には「狩宿」「駒止の桜」「下馬桜」「幕張の欅」「陣馬の滝」「鞍掛」「狩坂」「撫川」「鬢撫水」などオフタイム的な呼称が並ぶ。これは明らかに猪土手に囲まれる内側が巻狩に名を借りた軍事訓練の場であったことを示すもので、その中心に位置した天神山は確実に富士の巻狩遺構のひとつであったと言えよう。

図2図2 天神山と猪土手

写真3

写真3写真3 富士の巻狩の浮世絵(一英芳幾画)

7.まとめ

信長が中道往還を富士遊覧として歩むことは、頼朝の富士の巻狩に係る旧跡を訪ねることに重なる。人穴を発ち上井出に至り、この辺りのことを詳しく尋ねたのは富士の巻狩の痕跡が色濃く残っていたからに他ならないであろうし、「頼朝のかりくらの屋形」とともに「かみ井手の丸山」も旧跡のうちであるが故に該記に記載されたものであろう。
これまでに富士の巻狩に係る遺構として、天神山を否定するものはないし、上井出に存在した天神山と峰山のうち、「丸」を意識できる天神山に天神社が鎮座され、さらに天神信仰の広まりによって、何時しか、「丸山」から天神山の呼称に凌駕されていったものと考えておきたいのである。

参考)渡井一信 1991 「富士の巻狩と猪土手」『月の輪』第6号 富士宮市郷土史同好会

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