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「角田桜岳日記」を読む1 —進物にされた納豆と山葵—

2011年06月29日掲載


角田桜岳(佐野定経・通称与市)は、江戸時代末期大宮町連雀(現富士宮市東町)に住み、大宮町の町役人を勤め、助郷免除の嘆願や万野原の開発など地域の振興に尽くした功労者として知られています。また、江戸に度々遊学し地球儀の製作に関わるなど、文化的にも先覚的な人物でした。
郷土資料館では、平成16年5月に「郷土の先覚者-角田桜岳)展」を開催しました。これは、この角田桜岳が残した日記10冊を解読した成果を発表したものです。その後、平成21年3月までに全54冊を解読し、『角田桜岳日記』全5冊を刊行しました。日記には、本人の行動や近隣の出来事などが詳しく記録され、この地域の当時の様子が分かります。また、江戸出府中の交友関係や愛読した書物などの記載もあり、知識人・文化人としての桜岳についても知ることができます。
ここでは、日記を解読して分かった富士宮地域のことを中心に紹介していきたいと思います。

納豆・なっとう

桜岳の時代はどんな物を食べていたのでしょうか。平成16年に開催した展示会では、「当時の食べ物」として紹介しました。
なかでも、桜岳は「なつとう(納豆)」を好み、江戸出府中に大宮より「なつとう」を取り寄せていることや、取り寄せた納豆を役人への進物にしていたことを紹介しました。現在の富士宮地域で一般に食されているのは糸引き納豆ですが、静岡県の西部に行くと浜名納豆・大福寺納豆・寺納豆などと呼ばれる塩辛納豆があります。では、江戸時代の終わり頃、桜岳が食べていた納豆はどういう物だったのでしょうか。
納豆には、次のような二種類があります。

細菌の酵素を利用した大豆の加工食品で、乾燥した塩辛納豆と、糸引納豆との二種がある。

  1. 塩辛納豆は蒸した大豆にこうじ菌を接種してこうじ豆を作り、塩水にひたして発酵させてから乾燥したもの。古くから寺院の食物として作られ、浜名納豆・一休納豆・大徳寺納豆・唐納豆・寺納豆などの称がある。
  2. 糸引納豆は蒸し大豆を藁苞(わらづと)などに包み、適温の中で、納豆菌を繁殖させて発酵させたもの。豆の表面の粘りと独特の風味があり、醤油や辛子を加えて練り、飯にかけたり納豆汁にしたりして食べる。まめなっとう。

(『日本国語大事典』より)

全日記の中で、「納豆」の記述が出てくるのは18箇所あります。天保13年(1842)9月13日の条には、江戸出府中の桜岳の所へ大宮町の高瀬仁右衛門が訪ねてきて納豆を持参したとあります。さらに、同年10月5日の条に「宅より出した納豆が熱海廻しで、ようやく今日着いた。」、同8日の条には「渡辺様屋鋪と大島氏屋敷へ行、納豆を進上した。」とあります。大宮産の納豆を進物にしていることが分かります。この納豆は日持ちのする物のようですから、糸引き納豆ではなく塩辛納豆だったと推測しました。当時は糸引き納豆が食べられていた江戸では、進物にされるほど珍重されていた物と思われます。
弘化5年(1847)4月28日の条に「浜吉というものから、鳳来寺納豆の拵え方を教わる」とあります。鳳来寺納豆がどういうものであったのか分かりません。
文久4年(1864)2月22日の条に「遠州ハママツ倉橋善左衛門へ頼んだ唐納豆代として金壱朱を払う」、同年3月18日の条に、唐納豆が着いたとあります。江戸出府中の桜岳が唐納豆(浜名納豆=塩辛納豆)を浜松から取り寄せています。このころ、江戸でも塩辛納豆が一般庶民の間で食されていたものと推測されます。
江戸出府中の元治元年(1864)8月11日の条に「たゝき納豆代十二文」、大宮帰郷中の元治2年(1865)3月10日の条に「大平市兵衛よりタヽキ納豆苞弐ツもたせ遣ス」とあります。「たゝき納豆」や「タヽキ納豆苞弐ツ」とは、納豆を包丁でたたいて細かくしたもので、この納豆が塩辛納豆なのか糸引き納豆だったのかは不明ですが、糸引き納豆であったならば、当時この地域でも糸引き納豆が食されていたことになります。
慶応2年(1866)正月4日の条に、「平等寺・大頂寺所化来る、年礼也、大頂寺より納豆沢山におくり遣ス」とあります。納豆は寺で作られ、年賀の挨拶に檀家に配ることが行われていたといいます(注1)。この地域でも、当時はそうした風習があったことが推測されます。
このほか、こうじ菌で熟成させ、塩漬けの野菜と共に漬け込んだ金山寺みそを納豆に含め、納豆は三種類とすることもできるといいます(注2) 。桜岳日記のなかにも、金山寺あるいは金山寺みそという記述があり、身近の贈答用に用いられています。

山葵・わさび

進物に使われたものとして、「納豆」のほかに「わさび」があります。弘化3年(1846)11月28日の条に、「明日精進川へわさびをもとめに行く手はずをした。是も河津家へ遣すつもりだ。」とあり、わさびを納豆と共に河津家(旗本)への進物にしています。桜岳は、そのわさびを精進川で買い求めています。19世紀初期に編纂された地誌『駿河記』には、精進川村の項に「山葵 献上名産也」とあり、当時すでにわさびが栽培されていて、幕府に献上されていたことがわかります。また、明治17年の『興国地誌』編纂のために精進川村が提出した資料には、同村の物産として煙草・芝川海苔・山葵が記載されており、年間3000本のわさびを産出しているとあります。さらに、昭和初期に編纂された『上野村誌』にも、上野村の特産物として芝川苔とわさびが紹介されています。「山葵は精進川に産し、産額多からざるも尤も佳品と称し、亦将軍家献上品の一たり。山葵田は三反歩余にして望月文左衛門家の有なり」とあり、昭和初期には精進川地区に三反歩余(約3アール)のわさび田があったようです。
このように、19世紀初期から昭和初期まで精進川地区でわさびの栽培が行なわれていました。現在、富士宮市内では猪之頭地区で栽培されていますが、同地区のわさび栽培は大正時代から始められたといわれていますから、精進川のわさび栽培は市内で最も古くから行なわれていたこととなります。精進川のわさび田がどこにあったのかまだ分かりませんが、かつては、精進川地区に隣接する猫沢地区にわさび田があったことを覚えています。精進川のわさび田も同じ水系にあったのではないかと推定されます。今後、その場所を特定したいと思います。
静岡県はワサビ栽培の盛んなところで、生産量、産出額ともに全国1位の生産県です。栽培の歴史は江戸時代初期までさかのぼると言われています。桜岳日記の弘化3年(1846)4月20日の条にも「孫八との国産也と江戸ニ而わさびもとめ出候よし」とあり、駿河国産のわさびが江戸に出荷されていたこともわかります。
今回は、進物にされた納豆とわさびについて紹介しました。これらはこの地方の特産品であったのかもしれません。現在、富士宮市は「食」によるまちおこし、「フードバレー構想」を進めています。古い日記や古文書を紐解いていくことで、忘れられているこの地域の特産品や特徴ある地方食が見つかるかも知れません。富士宮市の気候風土の中で作られ・食べられてきたものを発掘し、活かしていくことができればと思います。

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