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「布自」と記された土器-富士郡衙と富士山信仰-

2011年08月03日掲載

1.はじめに

現在の東名高速道路富士インターチェンジの周辺には、今から1300年以上前に大きな村が営まれていたことが知られています。近年、富士市教育委員会による発掘調査で遺跡の一部が明らかとなり、営まれていた村の様子が徐々に分かるようになっています。
この昔の大きな村跡は、遺跡として考えられ、「東平遺跡」と呼んでいます。この東平遺跡は、7世紀前半に登場し、平安時代の中頃に当たる10世紀まで継続する村跡であることが明らかになっています。遺跡のある場所は、現在の富士市伝法地区を中心とした地区一帯に広がります。
遺跡が登場する以前、この地区は、多くの古墳が作られていた場所でもありました。径54mを測る帆立貝の殻の形をしていることから帆立貝式前方後円墳と呼ばれている「伊勢塚古墳」がその代表となります。当時、この地区を治めていた首長の墓だと考えられています。伊勢塚古墳以外にも、馬具、武具、農具など豊富な副葬品が出土した中原4号墳や東平遺跡の北側にある横沢古墳などがあります。これらの古墳が点在していた地区において、7世紀になると新たな土地開発が始まり、計画的な村の経営が始まるのです。

2.東平遺跡

東平遺跡は、東西・南北とも1kmを超える大きな村の跡となる遺跡です。同じ時代の遺跡(出口遺跡、滝下遺跡)が周辺にも展開していて、広大な遺跡群を形成しています。この遺跡群を東平遺跡群と呼ぶ場合もあります。 東平遺跡は、発掘調査の成果から、8世紀の律令制の施行に伴う古代の富士郡において政治を執り行う富士郡衙の政庁域、それに関連する公的な施設、寺院、集落などが整備されていたのではないかと指摘されるようになっています。そして、それらは、東日本と都を結ぶ幹道である古代の東海道沿いに位置していたのです。
奈良時代の東平遺跡においては、このように、郡衙の政庁を中心とした各種施設の建ち並ぶ景観が想定され、富士郡における中心地となっていました。東平遺跡が中心地であったことを実際の出土遺物として、よく表しているのが、東平遺跡27地区で発見された墨で「布自」(「ふじ」と読ませる)と書かれていた墨書土器です。この土器は、8世紀中頃の須恵器と呼ばれる皿で、その底に墨で書かれていました。
「布自」は、地名であり、その由来は「富士山」からとされる意見が多いのです。地名としての「布自」は、郡司「富士氏」、富士郡、富士郡衙を表すものとなります(※1)。
この東平遺跡は、律令制が地方政治においてうまく機能しなくなる頃、衰退時期に向かい、遺跡の動向がはっきりしなくなります。それは、富士山の貞観年間の噴火や承平年間の噴火が起こった9世紀後半~10世紀にかけての時代に当たります。

3.遺跡の動向

奈良時代~平安時代にかけての富士郡における中心地の様子を確認してきましたが、周辺地域のおける様相は、どのようなものであったか少し考えて見てみようと思います。
先ず、東平遺跡の縁辺を流れる潤井川の上流域、つまり富士宮市域における遺跡分布を見てみると、その数が意外と少ないことが分かります。その分布も限定的で、弓沢川流域における峯石遺跡、石敷遺跡、上石敷遺跡、権現遺跡などが取り上げられます。それぞれ、8世紀の中頃を主体として非常に小規模な集落が営まれていました。それらは、散在するもので、富士郡の縁辺で営まれた小さな村々として捉えられます。奈良時代の富士郡における生活圏の広がりを具体化した遺跡分布と言えるものです。
古代の富士郡は、今の富士市域に数多くの集落遺跡などがあり、一極集中型の生活領域を形成していたものと考えられています。その地域には、政治、宗教、文化の各施設が設けられていたのです(※2)。
この東平遺跡が営まれていた期間の中で、奈良時代の終わり頃、つまり宮都の再編時期になると、富士郡内における遺跡の消長に変化が表れます。富士山西南麓に展開していた各遺跡は、消失し、その動向がはっきりしなくなるのです。そして、それとは対照的に富士川河口に甲斐の土器を多く出す破魔射場遺跡が登場しています。駿河の国の範囲を越えた集落間の交流が明らかとなるのです。
その後、再び遺跡が登場する時期は、東平遺跡の衰退時期に合うように9世紀後半以降となり、富士山中への進出が明らかになります。それを代表するのが、村山浅間神社境内で発見されている10世紀前半の竪穴住居址なのです。黎明期の富士山信仰に関わる重要な遺跡として考えられています。

4.9世紀の富士郡

9世紀前半、平安時代前葉の富士郡における遺跡の分布を概観してみましたが、それをまとめると、律令制を背景とした東平遺跡を中心とした富士郡衙地域の繁栄の跡が映し出されます。
8世紀後半になると、地方に対して、律令制が浸透して、法治国家としての形が整備されるようになります。それに合わせて、東平遺跡での寺院における宗教儀礼の開始が明らかとなり、郡衙における政庁と寺院の関係が成立するようになります。この場合、寺院の成立が考えられますが、同時に神社の登場も想定されるものです。神社の成立は、寺院の成立とそれほど時代的な違いがなく、7世紀の中で捉えられるものです。地方における宗教関連施設の登場を8世紀末~9世紀とすると、富士郡衙域において寺院同様に神社の登場も考えても良いように思われます。この信仰施設の再編に当たって、神社における信仰の対象が「富士山」となり、山岳信仰としてのひとつの姿が現れるのではないでしょうか。そして、その登場が、富士山麓における遺跡の消失に繋がるのではないかと考えています。
古代における富士山信仰に関わる歴史の中で、具体的に関連する記事が登場するものは、文徳天皇実録と言う文献にある仁寿3年(853)の神格にかかわる記事からのようです。8世紀から9世紀にかけて、時代は大きく移り変わるわけですが、それが浅間神社社伝の記事の中に反映されるのではないでしょうか。神社の登場や富士山信仰の始まりは、富士郡のおける中心地、つまり富士郡衙において開始されたものと捉えるべきだと思います。社伝の伝える9世紀の出来事は、このような歴史的な背景に由来して成立したとすると、大変興味深い関連が指摘できそうです。
社伝に言う大宮の地に浅間神社が鎮座するとされる時代の解釈は、史実としての歴史的背景を通して考えると、うまく説明できない事柄が数多くあります。律令体制下の宗教施設の大きな変革期や社会の変動期が形を大きく変え、伝承として伝えるのが、大同元年(806)つまり桓武天皇が崩御した年に起きたとされる出来事なのではないでしょうか。

図1

図2

※1 東平遺跡出土土器実測図 植松章八2002「東平遺跡の成立と展開」富士市教育委員会より引用
※2 関連遺跡分布図 — 平安時代初頭の遺跡分布 —
(主任学芸員 渡井英誉)

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