ここからサイトの主なメニューです
ここからページの本文です

富士宮市内出土の常滑焼甕 -主に浅間大社遺跡・大宮城跡出土遺物の検討-

2011年09月15日掲載

富士宮市内出土の常滑焼甕を紹介します。

はじめに

中世陶器を代表する常滑焼は、現在の愛知県知多半島で生産され、全国に流通しました。常滑焼は、独特の赤みを帯び産地特定が比較的容易な焼き物で、富士宮市内の遺跡からも確認されています。器種は甕、壷、片口鉢にわたっていますが、今回は大型貯蔵具の動向を知りたいため、「甕」に限定して分布状況を調べてみました。

図1図1 位置関係図

中世常滑焼甕

出土した常滑焼甕の時期を確定する決め手は甕口縁の形態です。古いものでは大きく外に反った形に、次いで垂直に近い「L字状」になります。13世紀前半には口縁が折り返されて「受け口状」になり、13世紀後半には受け口が垂下して「N字状」に変わります。14世紀は口縁が「帯状」になり、15世紀には頸部に貼り付けられ口縁自体が肥厚化する変遷をたどります。(図2)

図2図2 常滑焼甕型式変遷模式図(参考文献4に加筆)

富士宮市内の出土遺跡

以上の判断材料で甕の時期を決定していきます。市内に眼を向ければ遺跡から常滑焼甕が確認されているところは現在、6ヶ所にのぼります。比較的大量に出土している遺跡は浅間大社遺跡と大宮城跡です。現在も市の中心地に位置していますので周辺地域における政治経済の中心でもあり、大量消費されたと考えられます。

図3図3 市内常滑焼甕出土遺跡位置図

図4図4 市内出土常滑焼甕実測図(参考文献1.2から)

大宮城跡と浅間大社遺跡出土の常滑焼甕

比較的、資料が豊富な富士大宮司館跡・大宮城跡と浅間大社遺跡の動向を見てみます。

富士大宮司館跡・大宮城跡

報告書(参考文献3)では常滑製品は1015点確認され、うち甕は919点にのぼり約90%を占め、遺跡全体では3%の出土数になっています。甕は12世紀後半から認められ、16世紀前半まで各時期の型式が連綿と出土しています。各時期の数量に大差はなく、16世紀中頃以降は常滑焼甕が出土していません。大宮城は16世紀後半に廃城となり、他の出土遺物も同様に激減します。

浅間大社遺跡

静岡県が平成20年に実施した富士山の世界遺産登録事業にともなう発掘調査では、詳細な常滑焼甕の点数が報告されています。ここでも甕は連綿と各時代の型式が出土していますが、14~15世紀の数量の多さに比べ15~16世紀の資料は減少する傾向(表1)がわかりました。

表1表1 浅間大社遺跡出土常滑産陶器点数表(参考文献2 第11表に加筆)

結び

常滑焼の甕は、器種として水、油、染料を貯めるには欠かせないものです。他の焼物と違って最後まで必要になり、本来は数量の減少に至らないものと想定されます。それが減少に至る原因は何によるものでしょうか。
ひとつには消費活動の最終段階である「廃棄」の時間差です。考古学ではこの「廃棄」で得られる遺物から考えを組み立てます。例えば大宮城跡は16世紀後半で廃城になりますが、他の居住地へ移動するとき、当然生活用品は持ち運び出され、廃棄される機会が少なくなり出土量は減ることになります。実際、大宮城跡の動向はこれに該当すると思われます。
しかし浅間大社は歴史的に廃絶することがなくても、15~16世紀の甕減少は廃棄の時間差ではかれない問題が含まれそうです。この結果は、生産遺跡の動向に深く結びつくと考えられます。常滑焼は鎌倉幕府滅亡を大きな画期として、窯の分布が知多半島全域から常滑市内湾岸部に集約され(図5)、更に16世紀では2基しか確認されないほどの操業になります。

図5図5 常滑市内窯跡分布図(参考文献5に加筆)(参考文献2 第11表に加筆)

常滑焼の甕は、器種として水、油、染料を貯めるには欠かせないものです。他の焼物と違って最後まで必要になり、本来は数量の減少に至らないものと想定されます。それが減少に至る原因は何によるものでしょうか。
ひとつには消費活動の最終段階である「廃棄」の時間差です。考古学ではこの「廃棄」で得られる遺物から考えを組み立てます。例えば大宮城跡は16世紀後半で廃城になりますが、他の居住地へ移動するとき、当然生活用品は持ち運び出され、廃棄される機会が少なくなり出土量は減ることになります。実際、大宮城跡の動向はこれに該当すると思われます。
しかし浅間大社は歴史的に廃絶することがなくても、15~16世紀の甕減少は廃棄の時間差ではかれない問題が含まれそうです。この結果は、生産遺跡の動向に深く結びつくと考えられます。常滑焼は鎌倉幕府滅亡を大きな画期として、窯の分布が知多半島全域から常滑市内湾岸部に集約され(図5)、更に16世紀では2基しか確認されないほどの操業になります。
表2に見られるように富士宮市地域まで供給する東海地方の甕生産遺跡は15世紀を画期に凋落していきます。供給元が生産を減らす傾向が浅間大社遺跡の常滑焼甕の出土量に反映されたと考えられます。

表2表2 東海地方中世甕生産遺跡消長表(参考文献5より)

参考文献
  1. 富士宮市教育委員会2000『元富士大宮司館跡』
  2. 財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所2009『浅間大社遺跡・山宮浅間神社遺跡』
  3. 菊川町教育委員会2000『横地城跡 総合調査報告書 資料編』
  4. 財団法人瀬戸市埋蔵文化財センター企画展図録1993『東海の中世窯』
  5. 財団法人瀬戸市埋蔵文化財センター企画展図録1998『六古窯の時代』

(嘱託学芸員 田中城久)

お問い合わせ

教育委員会事務局 教育部 文化課 埋蔵文化財センター

〒419-0315 静岡県富士宮市長貫747番地の1

電話番号: 0544-65-5151

ファクス: 0544-65-2933

メール : maibun_center@city.fujinomiya.lg.jp

表示 : モバイル | パソコン

ページの先頭へ戻る