ここからサイトの主なメニューです
ここからページの本文です

「市内北部地域の歴史とくらし」展

2012年11月12日掲載

北部地域の歴史や人々のくらしを紹介します。


富士宮市北部に位置する旧上井出村(「上井出村」と表記)は、江戸時代には、上井出村・人穴村・猪之頭村・根原村・麓村でした。平成24年3月、富士宮市教育委員会は「上井出区」に伝わる古文書資料を整理し、報告書を刊行しました。

1.村のくらし

各地区の様子

上井出地区

近世には、上井出村や上井出宿と呼ばれた。甲州街道(中道往還)と郡内道(上井出道)が通う交通の要衝であり、宿場が置かれ、伝馬役が課された。

上井出地区上宿の松上井出地区上宿の松

猪之頭地区

近世には猪之頭村であった。周辺の村々と異なり、湧水に恵まれた土地であり、豊富な湧水は農業用水や生活用水として村人のくらしを支えた。

陣馬の滝陣馬の滝 (鎌倉時代初め、源頼朝が富士の巻狩の際にこの付近に陣を張ったと伝わる)

人穴地区

近世には、人穴村や人穴宿と呼ばれた。甲州街道と郡内道(人穴道)が通っており、上井出宿と本栖宿の間にある「間宿」の役割も持っていた。また、溶岩洞穴「人穴」は、江戸時代中期以降、江戸で隆盛した富士講の信者に信仰され、多くの参詣者を集めた。

人穴富士講遺跡人穴富士講遺跡

麓地区

近世には麓村であった。戦国時代には金山があったが、近世に入ると採掘されなくなった。このため、麓村の竹川家は御林守として富士山麓の森林を管理するようになった。

竹川家の門竹川家の門

根原地区

近世には根原村であった。甲州街道筋のなかでも駿河国(静岡県)と甲斐国(山梨県)の国境に接しており、戦国時代には関が置かれていた。江戸時代には、甲州街道の伝馬役が課された。

どんど焼きのヤナギどんど焼きのヤナギ

江戸時代の様子

近世、駿河国は幕府直轄地(天領・御料)や旗本領(旗本采地・知行所)とされ、富士宮市域の村々も幕府直轄地と旗本領が大半を占めていた。また、複数の領主を持つ村や、隣接する村が異なる領主を持つ場合も多かった。
「上井出村」では、上井出村・猪之頭村は旗本領・藩領、麓村・根原村・人穴村は天領であった。
天領の村々は、甲州街道筋に位置し交通上重要な場所であったが、自然環境の厳しさから石高は小さく、中でも国境に接する根原村は近世を通じて無高とされた。

各村の領主・石高一覧

村名 領主 石高
上井出村 旗本杉浦家知行 240石5斗1升(天保郷帳:243石5斗3合)
人穴村 天領 44石5斗1升
猪之頭村 甲府藩領→旗本松平家・岡野家知行 56石9斗9合(天保郷帳:207石7斗3升8合)
麗村 天領 3斗1升9合
根原村 天領 無高

甲州街道の伝馬役

天正4年(1576)、武田氏は根原郷20軒に対し、九一色郷と同じく諸役を免除し、伝馬役を賦課(ふか)した。伝馬役とは、街道筋の宿駅などに課された税で、物資輸送や公人往来のための人馬を提供するものであった。
国境に接する根原村は、中世には出入りを取り締まる関が置かれ、甲州街道筋でも重要な場所のひとつであった。天正10年(1582)には徳川家康も同じく根原郷30軒に対して伝馬役を賦課し、翌年には大宮町の伝馬屋敷分七貫文地を下した。
同じく甲州街道筋にある上井出宿に対しても、天正11年(1583)、家康から諸役免除・伝馬役賦課の朱印状が出された。

徳川家康宿中取立朱印状徳川家康宿中取立朱印状

村の生業

富士山西麓に位置する北部地域は、林業や畑作、甲州街道での物資輸送などで生計をたてていた。
根原村は、伝馬役を勤めるために七貫文の銭が支給されることになっていたが、後にその代わりとして富士山麓に広がる幕府直轄林「富士山御林」での山稼ぎ(林業)が許された。しかし、富士山御林の利用方法について度々御林守と衝突した。天明年間(1781~1789)には、御林守との係争中を理由として山稼ぎが停止されており、代官所に対して山稼ぎの再開または七貫文の銭の支給を求めた。
また、この地域には、大正時代には木材搬出のために馬車軌道(「富士軌道」)がひかれた。これは、大宮~上井出間に開通していた富士軌道を静岡県と山梨県の県境付近まで延伸したものであった。大宮~上井出間は客車と貨車が運行していたが、上井出以北は貨車のみが運行した。それまで、木材は「木馬」(ソリ)に載せて馬や人が引っ張って山から出し、荷車に乗せて馬に運ばせていたが、馬車軌道が引かれてからは、レール上の貨車(トロッコ)に載せて運べるようになり、効率的になった。

馬車軌道木材を運ぶ馬車軌道

2.村とあらそい

入会地をめぐる争い

秣場争論裁許絵図秣場争論裁許絵図

富士山麓の草原地帯は、長く入会地として山麓の村々の共有財産として利用されてきた。また、山麓に広がる広大な森林は、駿河国内分は幕府直轄の「富士山御林」として管理されていたが、一部は近村に開放されていた。
入会地は、田畑の肥料(苅敷)、建築資材(草屋根の材料である茅)、家畜の秣、燃料などの供給源であり、日々のくらしに欠かせない重要な場所であった。このため、入会地の利用については村の間で度々問題になった。

駿甲国境争論

駿甲国境争論裁許絵図駿甲国境争論裁許絵図

延宝2年(1674)、富士郡31ヶ村と甲斐国本栖村との間に起きた国境争論について幕府の裁許が下された。
この時の争点は国境「天神嶽」の位置であり、両者とも複数の証拠を提出して争った。最終的には、駿河国側が提出した元亀3年(1572)の武田信玄朱印状の文章「西は天神嶽、東は湯沢」を根拠とし、駿河国側の主張を認める形で裁許が下され、国境線は湯沢の面にある天神嶽と駿州赤坂までとされた。
しかし、裁許から間もない天和2年(1682)には、郡内の百姓が国境天神嶽を越えて山稼ぎを行ったとして問題になった。この時には領主層の話し合いにより解決し、駿河国側の裁許絵図を基に国境線が確認された。

国境の画定

駿甲国境争論裁許絵図駿甲国境争論裁許絵図

元禄14年(1701)、延宝裁許に不満を持つ郡内八ヶ村は国境の是正を求めて提訴した。12月には評定所での対決、翌年には検使の現地調査が行われた。そして元禄15年(1702)12月、延宝裁許の国境線を破棄し、郡内側のを認める形で新たな国境線を定める裁許が下された。
この裁許には、当事者以外の関与が重要であった。天領(代官支配地)・私領(旗本知行所)が混在する駿河国側に対し、谷村藩領に属する郡内八ヶ村は藩主秋元家の積極的な支援を受けることができた。また、直接訴訟に関与していなかったため検使滞在先に選ばれた本栖村は、延宝裁許で駿河国側に敗訴しており、検使に働きかけて積極的に失地回復を図り、郡内八ヶ村を援護した。
この時定められた国境線は以降の国境(県境)基礎となったが、裁許後間もない宝永年間(1704~1711)には早くも越境が問題となっており、人々の意識に浸透するには時間を要した。

国境認識の形成と争論の終着

定杭定杭の図

寛政12年(1800)、国境付近に富士登山者相手の茶小屋を開業した本栖村に対して、駿河国側は富士山御林内(駿河国内)だとして争いになった。双方とも元禄裁許絵図に描かれている国境線を主張したが、実際の位置は異なった。この件は評定所に提訴され、最終的には評定所が定めた要所(ポイント)を結び実際の国境線の位置が定められた。その後、要所に「定杭」を立てて国境の位置の目安とすることになった。この定杭は定期的に建て替えられ、その度に国境の位置が再確認されるようになった。
明治二十四年(1891)に富士山麓の御料林が山梨県域として鳴沢村に払い下げられたことをきっかけに国境(県境)争論が再燃、大正九年(1920)行政裁判所の判決により現在の県境が定められ、駿甲国境争論は最終的な解決に至った。
*この年は特に富士登山の利益が高い富士山御縁年(庚申年)であり、数多くの登山者が見込まれた。

国境線

駿甲国境は富士山麓の森林原野地帯にあり、目印に乏しいため、基準となる場所の取り様によって線は大きく移動する。そのため、境界線付近の生木に切判を刻んで目印とすることは以前から行われてきたが、争論を解消するには至らなかった。そこで、寛政年間の争論で整理された要所に「御定杭」を立て、位置を明示することになった。

駿甲国境争論関係地現況図駿甲国境争論関係地現況図
国土地理院発行二万五千分の一地形図「精進」・「上井出」・「富士宮」・「富士山」・「天母山」・「入山瀬」より作成

国境を決める要所

1.天神嶽

延宝二年の裁許では「天神嶽から駿州赤坂まで」が国境とされ、駿河国側が所有する裁許絵図には「天神嶽は片蓋山の後ろにある」と記載されている。元禄年間の国境争論では「天神嶽」の位置が問題となり、駿河国側は「弓射塚」、甲斐国側は「天子ヶ嶽」をそれぞれ「天神嶽」だと主張した。評定所は甲斐国側の主張を支持した。

大室山付近 大室山付近(現在)

天子ヶ岳 天子ヶ岳(現在)

2.割石

割石付近(現在)割石付近(現在)

国境線の西端は、延宝二年の裁許絵図では「駿州赤坂」、元禄十五年の裁許絵図では「割石」と記されている。寛政年間の争論では、「割石」の場所は駿河国・甲斐国ともに一致した。割石には目印の定杭が建てられた。

3.無間ヶ谷

大沢崩れ(現在)大沢崩れ(現在)

国境の東端は無間ヶ谷の「三ツ俣」から富士山頂の「薬師岳」(現「久須志岳」)までの見通しとされた。「無間ヶ谷」は大沢崩れのことである。

4.判立場

「判立場」の場所は、駿河国・甲斐国で一致せず、双方の主張とも決め手に欠けた。そこで、評定所は、国絵図に記載されていた上井出村高札場から国境線までの距離を基に算出し、判立場の場所を決定した。ここには目印の定杭が建てられた。

判立場(現在) 判立場(現在)

天保国絵図に記された国境(甲斐国国絵図部分) 天保国絵図に記された国境(甲斐国国絵図部分)

5.三ヶ水

三ヶ水付近(現在)三ヶ水付近(現在)

「三ヶ水」の場所は、両国の主張が一致せず、評定所は甲斐国が主張した場所を認定した。「三ヶ水」は水がある場所で、延宝年間には本栖村が畑を開き小屋を建てていた。

6.丸山・長山

丸山・長山(現在)丸山・長山(現在)

寛政・享和年間の争論の結果、丸山付近には定杭が建てられることになった。「丸山」は二ツ山、「長山」は永山である。大正年間の県境争いの裁判では、「丸山」と「長山」の位置が争われた。

お問い合わせ

教育委員会事務局 教育部 文化課 埋蔵文化財センター

〒419-0315 静岡県富士宮市長貫747番地の1

電話番号: 0544-65-5151

ファクス: 0544-65-2933

メール : maibun_center@city.fujinomiya.lg.jp

表示 : モバイル | パソコン

ページの先頭へ戻る