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「大宮・村山口登山道」展

2016年08月16日掲載

「大宮・村山口登山道」展について紹介します。


大宮・村山口登山道は富士山頂へと至る登山道のひとつで、大宮の浅間神社(現富士山本宮浅間大社)、村山の興法寺(現村山浅間神社・冨士山興法寺大日堂)を通ることからこの名称があります。六合目以上の登山道は現在でも利用されており、平成24年には史跡富士山に指定、平成25年には世界文化遺産に登録されました。本展では登山道の歴史を紹介します。

1 富士登山のはじまりと展開

富士登山のはじまり

平安時代初期、富士山は噴火を繰り返し、そのたびに麓に暮らす人々の生活に大きな影響を与え、人々に恐れられていた。
『本朝世紀』(平安時代の歴史書)の久安5年(1149)の記事によると、末代という人物が富士山に数百回登頂し、山頂に仏閣を構えて大日寺と号したという。これが記録上に見える最初の富士登山とされる。これ以降、末代に連なる修験者たちが富士山に登頂し、富士山中で修行を行ったものと考えられる。また、村山には、正嘉3年(1259)制作の大日如来坐像(富士宮市指定文化財)が伝わる。

夏の富士山夏の富士山

戦国時代の富士登山

戦国時代、駿河国は今川氏により支配された。今川氏から興法寺に宛てて発給された文書には、登山期間中の道者(富士登山者)の保護について定めたものなどがある。
この時期には、修験者のみならず、多くの一般庶民が信仰に基づく富士登山を行うようになった。16世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」(重要文化財、富士山本宮浅間大社所蔵)には、大宮の浅間神社、村山の興法寺を経て富士山頂を目指す道者の姿が描かれている。
また、この時期までには、大宮と村山に登山者の世話をする宿坊が成立し、登山道の各所にも道者の世話をする施設が成立していた。

現在の村山浅間神社(手前)と大日堂(奥) 現在の村山浅間神社(手前)と大日堂(奥)

富士山頂を目指す道者 富士山頂を目指す道者

2 登山道の姿と変遷

江戸時代の富士登山

『駿河志料』掲載の絵図(村山と登山道) 『駿河志料』掲載の絵図(村山と登山道)

現在の中宮(中宮八幡)跡 現在の中宮(中宮八幡)跡

江戸時代、「村山三坊」と称された大鏡坊・池西坊・辻之坊の三坊が登山道と登山道沿いの山小屋などの施設を管理した。
富士登山はより盛んになり、大宮・村山口登山道では、富士川以西の西国地方を中心に多くの道者を迎え入れた。特に60年に1度の庚申の年は、富士山の御縁年として富士登山の御利益が大きいとされ、登山道は多くの道者で賑わった。
また、この時代になると、登山道や山小屋等に関する資料もいくつか残され、その姿と変遷をより具体的に確認することができるようになる。

山中の施設

江戸時代、山小屋など富士山中の山小屋等の施設の経営・管理は、村山三坊と村山周辺の人々を中心に行われていた。施設は大和(現奈良県)、京(現京都府)、伊賀、伊勢(ともに現三重県)、尾張、三河(ともに現愛知県)、遠江(現静岡県)など、主に富士川以西の地域の人々の寄進により建設された。
また、山小屋の様子については、『駿河国新風土記』(天保5年〈1834〉成立)や『駿河志料』(文久元年〈1861〉成立)に記されている。それによると、山小屋は四方を石に囲まれ、床は溶岩の上に莚を敷いただけの簡素な造りだったことが分かる。広さは、『駿河志料』によると1丈(約10㎡)だった。

旧五合目山小屋跡(六合目—新七合目) 旧五合目山小屋跡(六合目—新七合目)

旧五合目休泊所(大正時代) 旧五合目休泊所(大正時代)

証(大正2年/富士山五合目の石室を売渡した時の書類) 証(大正2年/富士山五合目の石室を売渡した時の書類)

集合決議事項(昭和6年/山小屋の営業についての取決め事項) 集合決議事項(昭和6年/山小屋の営業についての取決め事項)

登山道の管理

登山道は、天災等の事情により、度々改修や付替えが行われていた。富士山導者道絵図(聖護院所蔵)には、宝永年間以降の3度の登山道改修について次のように記されている。
(1)宝永の噴火(宝永4年・1707)により、登山道・施設ともに跡形もなくなってしまったので、西の方に新たに道を造り替え、施設も再建した。
(2)寛政年間(1789-1801)に水害により、登山道が荒れてしまったので、麓の48ヶ村から助成金の寄附を受けて、登山道を造り替えた。
(3)天保5年(1834)4月8日、雪解け水により施設が流失し、登山道も大荒れとなったので、場所を替え、道を造り替えた。
このほか、雪解け水が流れて道筋が変わることは度々あり、少し荒れた際には近場の小屋主が修理していたという。

明治時代・大宮口新道の開削

明治時代になると、神仏分離・廃仏毀釈運動の影響により、富士山も大きく変化した。富士山中にあった仏像は破壊されたり、麓に下されたりした。また、山頂には浅間神が祀られ、浅間神社奥宮として整備されていく。
登山道では、大宮の浅間神社を起点とし、村山を経由しない新たな登山道を開削しようとする動きが大宮町の人々を中心に起こった。この登山道は明治39年(1906)に開通し、これにより、富士登山者は増加したが、村山は次第に登山道の拠点としての機能を失っていった。

現在の大宮口新道跡(二合目付近)現在の大宮口新道跡(二合目付近)

3 現代の富士登山

現在の富士登山へ

富士登山の様相は、現在に至るまで、大きな変化を続けてきた。特に近代以降の交通手段の発展はめざましく、大正年間に登山バスの運行が始まり、昭和年間には順次自動車道が延長されていった。そして、昭和45年(1970)に富士山スカイラインが全面開通した。この時の自動車道の終着点が現在の五合目となった。スカイラインの開通は富士山の登山者数やその動向を大きく変え、山小屋の統廃合など、山小屋の営業にも大きな影響を及ぼした。

現在の五合目から山頂を望む 現在の五合目から山頂を望む

登山道(六合目—新七合目) 登山道(六合目—新七合目)

現在の山小屋経営

現在の富士宮口登山道には、五合目から山頂まで、計9軒の山小屋がある。いずれも、7月から9月までの夏山期間を中心に営業している(五合目山小屋は富士山スカイラインの登山区間が通行できる4月下旬から11月初旬)。山頂で御来光を見る登山客の出発に合わせるため、営業時間は山小屋毎に異なる。登山客はほとんど関西地方から訪れていたが、近年は関東地方からの登山客も増えているという。
各山小屋には神棚があり、ほとんどの山小屋では浅間大社奥宮のお札を祀る。現在、仏像を祀る山小屋はない。

七合目休泊所(大正時代) 七合目休泊所(大正時代)

現在の元祖七合目山小屋 現在の元祖七合目山小屋

お問い合わせ

教育委員会事務局 教育部 文化課 埋蔵文化財センター

〒419-0315 静岡県富士宮市長貫747番地の1

電話番号: 0544-65-5151

ファクス: 0544-65-2933

メール : maibun_center@city.fujinomiya.lg.jp

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