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「庚申信仰」展

2016年04月12日掲載

市内に所在する庚申信仰の石造物を中心に、かつて市内各所で盛んに行われていた庚申信仰について紹介します。


古い道筋などに青面金剛や見ざる・言わざる・聞かざるの三猿を刻んだ石造物を見かけます。これらは庚申信仰の石造物であり、特に庚申年は重要視されました。

庚申信仰

この中国の道教の信仰が伝わり、やがて様々な信仰や習俗と合わさっていった。江戸時代には大変流行し、各地で庚申講が組まれ、庚申塔や庚申堂が建てられた。庶民にとっては、精進潔斎して身を慎むというより、仲間と集まって会食したり遊んだりして楽しむ社交の場でもあった。
庚申信仰は市内でも盛んだったらしく、各所に庚申塔が残されている。また、山本や橋場の庚申堂では今も祭りが行われている。

庚申塔(大嵐)庚申塔(大嵐)

庚申塔

庚申信仰は仏教や神道、民間信仰などと複雑に絡み合った信仰であり、その石造物(庚申塔)も多様である。市内では、「庚申」・「帝釈天」などの文字や種字(梵字)・経典を刻む文字碑、青面金剛や三猿などの像を刻むものなどが見られる。
猿像は申年にちなんだものと考えられ、なかでも「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿像が多く見られる。また、「南無妙法蓮華経」の題目を刻む、題目塔を習合した庚申塔も多い。
庚申塔は、集落や庚申講中で造立された。申年、特に60年に一度の庚申年を記念して建てられることもあり、内房の大嵐には寛政12年(1800)から昭和55年(1980)までの庚申年毎に造立された4基の庚申塔がある。

市内で見られる様々な庚申塔

梵字(光町・二之宮共同墓地) 梵字(光町・二之宮共同墓地)

青面金剛(内房竹ノ下) 青面金剛(内房竹ノ下)

青面金剛(小泉向原) 青面金剛(小泉向原)

題目庚申塔(星山) 題目庚申塔(星山)

文字碑(外神上谷) 文字碑(外神上谷)

文字碑(根原) 文字碑(根原)

庚申塔に刻まれるもの

三猿三猿
見ざる・言わざる・聞かざるの3匹の猿。並び順はまちまち。猿は青面金剛の使いともいわれる。

二鶏二鶏
雄鶏・雌鶏の2羽の鶏。庚申の夜は徹夜をするので、夜明けを告げる鶏が描かれたと考えられる。

日・月日・月
庚申塔の上部に太陽と月が描かれる。月は三日月になっている。雲に乗っているものも多い。

青面金剛(しょうめんこんごう)

もとは伝尸病(でんしびょう:結核)を除く鬼神とされた。伝尸病は恐ろしい病であり、これを治すには三尸の虫を退治する必要があるとされた。やがて伝尸病を防ぐ青面金剛が三尸の虫を退治すると考えられるようになり、庚申の本尊として信仰されるようになったと考えられている。
青面金剛像の多くは髪を逆立て怒りの形相をしている。邪鬼を踏みつけているものもある。腕は2本・4本・6本で表され、各手に剣や弓矢といった武器や羂索(けんさく、縄)など、さまざまなものを持つ。
市内では6本の腕を持ち、中央で合掌している形が多い。

青面金剛青面金剛

庚申堂

市内の山本、長貫橋場、杉田新梨などには庚申塔などを祀る庚申堂がある。庚申堂は集落で祀られ、今も祭礼が行われている。

山本の庚申堂(猿田彦神社)

堂内に「青面金剛」の文字を刻む庚申塔が祀られている。大きな宝塔で、下部は床下に潜り込んで直接地面に立っている。昔は庚申の祭りが年6回行われ、人参・大根・ねぎなどの野菜を供え、祈りを捧げたという。その後、皆で飲食をし、一夜を過ごした。また、祭典後に夫婦で供物を食べると丈夫な子供が産まれると言われたという。 現在は2月11日を例祭日とし、その前後に祭りを行っている。

庚申塔(山本の庚申堂内)庚申塔(山本の庚申堂内)

橋場の庚申堂

堂内の内陣に、庚申塔・神像・猿の像・青面金剛の掛軸が祀られている。この庚申塔は失せ物探しに御利益があるとされ、失せ物をした際に左撚りの縄で庚申塔を縛ると見つかるという。また、ここは広く信仰されていたようで、幕末の大宮町の造酒屋主人が記した『袖日記』には、嘉永6年(1853)4月17日条に「橋場庚申様へ代参 当月廿四日参り候」とあり、24日に「端(橋)場村庚申様へ参詣」している。橋場の庚申堂の祭りは申の日に行われていたが、現在は3月下旬から4月上旬に行われている。

橋場の庚申堂(内陣の様子)橋場の庚申堂(内陣の様子)

新梨の庚申堂

堂内に宝塔型の庚申塔と正徳5年(1715)の銘がある観音像が祀られている。庚申塔の正面には「卍」と三猿が刻まれており、仏教の影響を受けた庚申塔と考えられる。側面には「杉田村新梨」の地名と、願主6名の名前が刻まれている。杉田には、新梨のほかに滝ノ上にも庚申堂があったという。また、丸塚・中村・滝ノ上・久保・千貫松にも庚申塔が残されており、集落単位で庚申講があったと考えられる。

新梨の庚申堂新梨の庚申堂

富士山信仰と庚申

庚申年は「富士山御縁年」とされ、特に富士登山の御利益が高い年であるという。これは、庚申年に富士山が湧出したという伝説に由来するもので、江戸時代には広く流布していた。
庚申年は例年に増して多くの参詣者(登山者)が集まった。
申年も「小縁年」として信仰された。
富士市岩淵の岩淵鳥居講は、江戸時代から申年ごとに富士山山頂に鳥居奉納を行っており、今年平成28年申年にも鳥居の奉納を計画している。
庚申御縁年の考えから、猿は富士山に縁があるものとされた。
村山で発行された富士山信仰のお札には、富士山の神仏である女神や大日如来を礼拝する2匹の猿が描かれている。また、江戸の富士講の信仰では、開祖・長谷川角行は、溶岩洞穴「人穴」での修行中、仙元大日神の使いである猿に導かれたという。

富士山山頂に奉納された鳥居富士山山頂に奉納された鳥居

富士山信仰のお札・版木

女神のお札女神のお札:村山で発行された富士山のお札。富士山の女神を拝む2匹の猿が描かれる。

「富士山開帳」「富士山開帳」:庚申年の富士山御縁年を記念し、特別に仏像類の開帳が行われるとの広告。御縁年には参詣者(登山者)が増加した。

富士山の誕生(出現)

孝安天皇九十二年の庚申の年の正月、駿河国が四方に割けて大海となり、その夜のうちに海から大山が現れて 海を埋めてしまった。
村山の興法寺に伝わる「富士山略縁起」には、富士山の誕生(出現)についてこのように記されている。庚申年に突如富士山が出現したという話は、江戸時代には広く流布し、庚申年は富士山御縁年とされた。

お問い合わせ

教育委員会事務局 教育部 文化課 埋蔵文化財センター

〒419-0315 静岡県富士宮市長貫747番地の1

電話番号: 0544-65-5151

ファクス: 0544-65-2933

メール : maibun_center@city.fujinomiya.lg.jp

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